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蝦夷の時代22 松前藩主五代目 松前矩広

松前藩主五代目 松前矩広(のりひろ) 
1665年(寛文5年)から1720年(享保5年)  在位55年 享年61歳

寛文5年、幼少の松前矩広が藩主となり、家老の蠣崎蔵人広林は財政改革の必要からアイヌ搾取を強化することとなりました。

アイヌ勘定

松前藩のアイヌとの取引内容は、徳川家康より黒印状を与えられているので悪化していきました。

その一つに「アイヌ勘定」があります。

例えば、鮭の商いに「はじめ・1・2~10・おわり」と言って二匹を誤魔化すのです。


干鮭の束


数が多いとなると、更に「真ん中」を入れて三匹の誤魔化しとなります。
鮭一匹であれば、三匹で済みますが10匹を束ねて10束を数えると30匹がタダとなるのです。
落語の「時蕎麦」の商法を用い、怒ると「アイヌ勘定もわからないのか」と嘲笑うのでした。

アイヌが漆器を好むと解れば粗悪な塗りで作らせ、刀と言っては竹光を渡し「抜いたら罰があたる」。

更に、従来鮭百匹に対し米一俵(二斗入)で取引されていたものが、突然米一俵を小さくして(八升入)同じ取引となっていきました。


米俵の違い

また、岩内では、松前の商人が川に大網をおろして鮭を取りつくすので、アイヌの鮭漁ができなくなります。

アワビの串貝は一束でも不足すると、翌年は20束でとられ、出せないものは子どもを質にとられる始末。

松前に訴え出た余市の首長は半殺しにされて追い返される。
交易にさいしての和人のごまかしとおどしなど、アイヌの不満は極度に高まっていました。

アイヌ民族最大の蜂起「シャクシャインの戦い」が起こる背景には、このようなことが蝦夷地で起きていました。



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