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観光客が行かない士別巡り

観光客が行かない「士別市」の旅  
               人口17,407人(令和4年8月現在)

羊と雲の丘・めん羊牧場

市名の由来はアイヌ語「シュ・ベッ(シベツ)」から転訛したもので《合流して主流となる河川》、これは剣淵川と天塩川とが合流して「本当の・川」(天塩川)を意味しています。また、「シペツ」を音訳して「志別」を屯田兵が入地して侍「士」になったという説もありますが、これには根拠となる資料もなく以前から「士別」であったと言われています。                  

・明治32年–屯田兵村100戸入植し士別神社の創建。
・明治35年-二級町村制施行により、士別村が誕生。
・大正4年-町制施行、士別町となる。
・昭和29年–士別町、上士別村、多寄村、温根別村が合併・市制施行、士別
 市が誕生。                        
・2005年(平成17年)–(旧)士別市と朝日町(上士別村字奥士別)の新設
 合併により、士別市が誕生。

大正時代には澱粉製造、昭和初期からは製糖で知られ、現在も甜菜糖の工場があります。現在は「サフォークランド士別」をキャッチフレーズに羊の牧畜に力を入れており、市営牧場にサフォーク種を中心に約30種類のめん羊が飼育され観光施設になっています。

トヨタ・ミシュラン・ブリヂストン・ヤマハ・ダイハツなど自動車・タイヤメーカーの試験場がつくられ、冬の厳しい寒さを利用した寒冷地試験が行われています。
姉妹都市ゴールバーン・マルワリー(オーストラリア)、
友好都市愛知県みよし市。

士別市のはじまり

屯田兵舎

士別は、明治32年7月に北海道最後の屯田兵が入植して開かれた町です。
現在の大通り1丁目付近(国道40号)に100戸の兵屋が建てられ、家族520人とともに入植しますが、100戸のうち一戸が火災になり99戸となりました。
この時期の屯田兵は平民が主で不安が高まります。
  
しかし、より団結心が強まり、守り神の士別神社を建築し、その山を「九十九山」と名付けました。
現在、士別市立博物館横にある屯田兵舎は、川津万次郎宅(兵屋番号67番)で、昭和44年九十九山の士別神社境内に復元し、その後移されました。
           

屯田兵制度は明治8年より札幌の琴似から始まりました。
以来北辺の守りと開拓の任を背負い北海道中に設立されましたが、士別に屯田兵が入植して制度は終了します。当初は士族でしたが、すでに平民の応募でした。
第一陣は近畿・四国・九州と日本海に面した人々で神戸に集結し東都丸で出発し10日後に小樽に上陸。
第二陣は関西以北の大平洋に面した人たちでした。
応募資格は、年齢17歳以上25歳まで(予備・後備・下士・上等兵は30歳まで)、兵員以外に農耕に従事する者が2名以上いる事が条件でした。
小樽から旭川までは汽車でしたが、千人近い人を運ぶ能力はなく台車に乗せられて到着。旭川からは蘭留(らんる)までしか開通しておらず、和寒(わっさむ)までは建設中でした。特別の計らいで建設列車の台車で塩狩峠を越え、和寒の停車場予定地に降りました。ここからは徒歩で、女・子どもや老人は丸木舟で剣淵川を下って士別に向かいました。

屯田兵が入地し、市街地周辺の開拓が進みましたが、一歩外に行くと未開の森林帯が続いていました。
政府は明治30年に制定した国有未開地処分法により、次々と土地の開放を実施して行きます。原則として一戸五町歩の土地が無料で貸し付けられ、五年間で開墾に成功すると、検査を受け無料で付与されました。

この北方の原野に人が入るようになったのは明治33年の鉄道開通(士別駅)と現在の国道40号(仮定県道天塩道路)が名寄まで開通し交通の便が良くなったからでした。

下士別地区に数戸、中士別一線から四線までに福島団体など100戸、更に明治34年には中士別九線から十二線にかけて小作70人を入れて奥野農場、また武徳地区が35年30戸余の小作人で農場を開き、西士別地区には39年など続々と移住者が入ってきました。
士別で最大の団体移住は奈良県からの吉野団体で、明治37~38年上士別兼内地区と川南成美地区に320戸余が入りました。

「天塩日誌」

上士別町21線と22線の中間地点・制作廣田健治氏

その昔、士別地区にはアイヌの人たちが住んでいました。
アイヌの古里に初めて訪れた和人は間宮林蔵でしたが、その50年後に松浦武四郎が訪れます。天塩日誌によると士別市内には十戸、49人のアイヌが住んでおり村長はニシハコロといいました。

安政四年(1857)旧暦6月7日、天塩川水源の実検を命じられて四人のアイヌを道案内として丸木舟で天塩川を遡りました。
武四郎の足取りを追うと『20日、名寄地方から風連にかけての天塩川右手は、重塁たる山岳、タヨロマ川のところに「一つの丸山」を発見、さらに遡ると、そこは「大なる淵」で、昔五丈もあるチョウザメがのぼった。やがて剣淵川との合流点(士別)に到着。そこに住む村長ニシハコロ(家族五人)の家で宿泊。

21日、合流点より更に遡る。(中略)この夜はアヘリテンカの家で宿泊。
22日、早朝、流木倒木の多い急流をのぼり、ハンケヌカナン(上士別)に到る。ハンケヌカナンより上は両岸いよいよ険しく淵になっているので引き返そうと思っていたところ、ここで案内アヘリテンカの妻がアツシを洗っているのに出会う。流木倒木を踏み越えてナイタイベに到着。ここで岸壁に漢詩を記す。この日ナイタイベよりやや上で宿営。
23日、朝霧の冷たさが肌をさす中をペンケヌカナンプ(朝日)に到着。ここから付近の山に登って、重塁たる連山の奥に頂上に雪をいただいた天塩岳を遠望し、「身を神の思ひぞしける雷の轟く雲の上に宿りて」という即興の句をものして、この夜はナイタイベまで戻って宿営。
24日、サツテタベツ(士別)に戻る』


東内大部山

上士別町兼内地区の北部で名寄市との境界に標高788.2mの東内大部山(とないだいぶやま)があります。
上士別町で地図に名前が掲載されている最高峰の山です。変わった山の名ですが、アイヌ語の「ナイ・タイ・ユペ」、川にいる鮫とのことで、訛って「ナイタイベ」となり、「内大部」の字を当てたといいます。

鮫と言えばチョウザメであり、天塩川にも明治から昭和初期にかけては遡上の記録が残っているようです。この東内大部山の西を流れる西内大部川があり、道道61号と交差する場所に「松浦武四郎 天塩川探検之地」碑が建てられています。武四郎の天塩川最上流での宿泊地で、本来は天塩川に近い場所だったのではと思われます。

米作りは明治33年ごろから試作され始めており、昭和30年代には米の生産量が水田の拡張によって大幅に伸びました。秋の出荷時期には食糧事務所の検査待ちで士別市大通の筋は馬車の行列ができました。
昭和35年には一市町村では全国最高の出荷数となり「30万俵達成記念」式典が盛大に行われました。そうして、昭和43年に産米60万俵となります。
石狩川以北では不可能といわれた米作も、技術の改良で克服されて行きました。なかでも多寄の富生藤吉氏は、土と水であると主張。土地改良事業・客土を奨励しました。また山崎水太氏は品種の改良に心血をそそぎ、温床育苗を考案するなどの先覚者でした。

工場も多く、材木会社が豊富な木材を製材にするため、士別駅西周辺には木材工場が大小6~7社も操業していました。
澱粉(でんぷん)は世界の相場さえ左右したといわれるほど大量に生産され、木材と共に士別の花形産業となりました。
ところが昭和45年に始まる国策となる「米の減反政策」によって市の基幹産業は大きな転換をせざるを得なくなりました。



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