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蝦夷の時代23 シャクシャイン前編

松前藩主五代目松前矩広の時代(1665年から1720年)にアイヌ民族最大の戦いが起こります。
この蜂起はアイヌ内部から発したものでしたが、アイヌ民族の幕藩制国家への戦いでもありました。松前藩主が幼少であったため、蠣崎の家老が政権を取ったところにも不幸が重なります。

時代を戻し「シャクシャイン」について

蜂起のキッカケは四代目松前高広(たかひろ)が6歳で就任した1648年(慶安元年)にはじまります。
発端はアイヌ民族内部の問題で、シブチャリ(静内)川とその周辺のイオル(漁猟権)を巡る争いでした。
日高シブチャリ川左岸にチャシをかまえたメナシクルの首長カモクタインと副首長シャクシャインに対し、沙流のハエを本拠とするハエクルの首長オニビシの抗争でした。いずれ劣らぬ豪勇と知略で鳴らした首長ですが、ハエクルは松前藩の味方アイヌと目されていました。

当時脇大将だったシャクシャインがオニビシ側のアイヌを殺害し、ツクナイ(償い)を出したがおさまらず、今度はシブチャリの大将カモクタインがオニビシ側に殺害されるといった抗争が相次ぎました。
交易途絶をおそれた松前藩の調停もあり一時停戦もしましたが、シャクシャインが捕獲した子熊をめぐっての争いなど、イオルをめぐる生産物の争いが表面化してきたこの争いの背景には、今まで自分たちの生活に必要なだけ捕獲していたものが、商場設置によって交易に生産力が追い付かない状況となって来たことがありました。

そうして、しだいに抗争は激しくなり、シャクシャインはついにオニビシを襲い殺害するにいたります。
以前より松前藩と親密な関係のオニビシ側の残党は、松前藩の援助(武器の調達)を求めて二度にわたり松前に赴きますが、いずれも拒否されてしまいます。
そうして、二度目の使者ウトマサが帰途疱瘡で死亡してしまいます。

ウトマサの死は松前藩によって毒殺されたものと風評がアイヌに広がり、にわかに蝦夷地のアイヌに不安と動揺が駆け巡りました。

写真は静内(現新ひだか町)にある真岡公園から見下ろした静内川と静内市街地

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