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北海道人のルーツ17 分領支配制度

新政府は明治元年4月に箱館裁判所(後の箱館府)を置きましたが、箱館戦争の終結後、明治2年8月にこれを廃止し、新たに開拓使を設置しました。
これが明治15年2月までの北海道開拓の中心となります。

開拓使では明治2年9月に、第一回募移民として東京府から約500人の浮浪者を樺太・宗谷・根室に入植させます。
彼らには渡航費のみならず家屋、3年間にわたる食糧・開墾料の扶助が与えられましたが、気候・土壌が悪かったことも重なって扶助期間が過ぎると離散してしまいます。

しかし、分領支配制度で割り当てた管轄者には一切の援助はありませんでした。


分領支配制度を作りましたが、この制度に重要な人物は関わりを持っていませんでした。

松浦武四郎

その一人は松浦武四郎です。11カ国86郡を提案した半年後に武四郎は開拓判官を突然辞職します。判官といえば大臣の下の次官に匹敵する高級官僚でした。
彼が身を引いた理由は、政府のアイヌ民族に対する仕打ちでした。

「明治維新により世の中が近代化しても、役人は北海道の先住民族であるアイヌの人々の存在を無視し、強盗のように物を奪い取る。これでは幕府時代と少しも違わない」

という無念さで自ら職をなげうちました。

理由はもう一つあります。東京においての業務で現地ではありませんでした。何度も北海道に行かせて欲しいと願い出ますが叶えられませんでした。


大友亀太郎

もう一人は大友亀太郎です。明治2年、新政府により設置された開拓使は亀太郎をそのままの形で雇い入れます。
そして、この大友堀を札幌の東西の基準線にし、札幌の区画割りを始めました。亀太郎はそれまで開墾したところを開拓使に引き渡し、新たに当別を開墾すべく、新政府軍との戦いに負けた旧会津藩士たちを入植させようとしました。
ところが、開拓使から会津藩士の入植を見合わせるという意向が伝えられ愕然とします。辞職を決意。
開拓使は何とか止めようとしますが、明治3年6月、亀太郎36歳で故郷の小田原に帰り「大友堀」はそれ以後、亀太郎の偉業を残すために付けられた名前です。

会津藩士が、殿の命と引き換えに、蝦夷地に向かった場所は現在の余市。
亀太郎が指定した当別は、仙台支藩の岩出山藩が、二転三転の変更願いでようやく獲得した原野でした。


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