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「精神保健福祉手帳をもつことの意義」 吃音当事者へインタビューしてみました#1

こんにちは。北海道吃音・失語症ネットワーク 言語聴覚士の濱屋です。

皆さんは吃音症という障害をご存知でしょうか。
話す時に音や語の一部を繰り返したり、引き伸ばしたり、言葉が詰まるのが代表的な症状です。成人の吃音当事者は120万人(100人に1人)いるといわれ、決して珍しい障害ではありません。しかし、正しい理解がいまだに広がっていないため、「話し方が変だ」「コミュニケーションに問題があるのでは」という偏見をぶつけられることも珍しくありません。

このnoteでは、吃音というものについて知って貰うとともに、吃音当事者の方々の体験談についても紹介していきたい!と思いインタビュー記事を投稿していきます。
記念すべき第1回目は、札幌在住の吃音当事者である中田健介さん。
吃音と歩む人生、進学や就職など様々なライフステージで悩み考えひとつひとつ乗り越えてきました。吃音当事者のみならず支援者にとっても、「自分らしく生きる上でのヒント」が詰まったお話をいただきましまた。

お話を伺った人

中田健介さん
札幌市在住。社会人2年目で仕事は営業職。幼少の頃からやっているサッカーではジュニアチームにも所属経験あり。自身のyoutubeチャンネルでは吃音についての発信や歌も披露。多方面でマルチに活動中。

幼少期を振り返って

小学生時代の吃音との付き合い方

濱屋:はじめに、中田さんのこれまでの吃音との付き合いについてお伺いします。吃音自体は幼少の頃からですか?

中田:そうですね。一番症状が重かったのは小学生中学生のころで、重かったというか対応できていなかったので会話がしんどいなと思っていました。

濱屋:幼少期を振り返り、吃音に対する学校での配慮や友人からの関わりで思い出すことはありますか?

中田:母親から学校の先生に話はしていたんですけれど、僕自身、話しにくいから文章を読まないとかという意思表示はしなかったので、時間はかかって躓いてもなんとか読むということをやっていました。配慮としては「待ってもらう」ことくらいで。小学生の時の学習発表会ですが、僕は自分の姿を見てもらうことが好きなので重要な役回りをしたかったんですけど・・劇中に3つ台詞がある役をもらったんですが最初の2つのセリフがどうしても言えなくて。で、合理的配慮ですかね、先生が「これ(セリフを)2つ削って最後のひとつをしっかり言うっていうのはどう?」と相談してきてくれて、「それで頑張ります。」って話し合って、なんとか学習発表会を終えることができたという。そういう配慮もしてもらえました。

濱屋:一方的な配慮ではなく、「これならばどうか?」といったすり合わせが自然とできる環境だったのですね。中田さん自身も内にこもるタイプではなく、どんどん表現していきたい方であったと。お友達とのやり取りについてはどうでしたか?

中田:あ、でも友人のやり取りのほうが難しかったというか。でも本当に、まわりの人に恵まれたほうだと思っていて。僕が話に詰まっても待っててもらえる人もちらほらいたんですよね。そういう方たちが本当に救いだったので、関わる人全員に話しがしにくいかといったら全然そうじゃない環境でした。でもやっぱり中学高校くらいになると、クラス内で今でいうカーストができてきて、その中でやんちゃな子とかに目をつけられるとからかわれたりするので、ちょっとだけクラスの中に居づらくなった、ということはありましたね。

濱屋:待ってくれる友達って、吃音のある方への配慮について学んだわけでもなく、やり取りの中で自然な形で待ってくれることができていたんですね。一方で、からかってくる人もいて、と。その年代になって、中田さん自身が話しにくさについて相談する相手はいましたか?

中田:高校生のときに言友会に相談に行って、高2の頃からは言語聴覚士のいる病院にも通ってました。小学生時代にはことばの教室に親が行かせてくれていたのですが、なんで行ってたのかは同時は全然わからなかったです(笑)。「吃音」というものを知って、自発的に「吃音を改善したいです」っていうふうになったのは高校生の時ですね。

濱屋:ことばの教室ではどんなことをしていましたか?

中田:基本的な読み書きから始まって、あとは遊びながらコミュニケーションをとるといった感じでしたね。

濱屋:当時は理由がわからないまま通っていたということでしたが、楽しんで通えてはいましたか?

中田:人と話すことが好きだったので、自分に対して温かいコミュニケーションを取ってくれる人とやりとりできる環境というのは快適なものでした。同世代の中でコミュニケーションを取りにくい中で、先生ですけど、コミュニケーションをとれたのはプラスにはなりました。

濱屋:なるほどですね。小さい頃から話すこと自体は好きだったんですか?

中田:そうですね、小学生のときは話すことが好きだったんですが、自我が育ってきてというか、小3頃から自分を少しずつ理解し始めると「やっぱりこれが苦手なんだな。」という苦手意識が芽生えて、なかなか話すことが少なくなりましたね。

「自分は吃音がある」と知ってから

濱屋:言友会につながって、実際に吃音当事者の集まりに行ってみてどうでしたか?当事者同士で集う機会はそこが初めてでしたか?

中田:そうですね。高校生のときにインターネットで「ことば 詰まる こんにちは」で調べたんですよ。それで「吃音症」っていうものが出てきて、「自分はこれかもしれない」と初めて知ったんですよね。そこのネット記事に経験談が乗っていて、そのときに自分だけではなかったんだと理解できたんですよね。それで「改善したい」となって、言友会に参加して。本当に当事者の方が普通にいて、対面でも会うことができたんだ、と新鮮な感覚でした。

濱屋:自分の症状に名前があると初めて知ったのは自身で調べてからだったんですね。

大学で学んだ「うまく伝える」ためのテクニック

濱屋:大学時代はどうでしたか?どのように吃音と付き合ってきましたか?

中田:大学は産業能率大学 情報マネジメント学部 現代マネジメント学科でした。その大学を選んだ理由が「プレゼンテーションを多くやる」という特色で。「人目にさらされることの重要性」を高校時代に感じていたことがあったんです。「とりあえず飛びこんでみよう。」という感じで、割と深く考えずチャレンジしてみようと思って。プレゼンが本当に多かったので最初はもちろんしんどかったです。学校の改善点を考えるワークでのグループ発表では、優秀なグループは大学の中で一番大きいホールで来年度の新入生向けの説明会で発表をする機会が与えられるんです。それに選ばれ、200人の新入生とその親御さん方の前で発表をしました。そういったことで、リスキーかも知れないですけど、鍛えられていったというのはあったと思いますね。

濱屋:そこでは「うまく話す」ということは求められましたか?

中田:求められていました(笑)

濱屋:でもそこで、点数や評価が下がることなく選んでもらえたということは、そこだけで評価されていたということではないんですね。

中田:学校で学んだことですが、言語での発信というのは人に与える印象は割と少なくて、プレゼンで真に見られるのはその内容であって、ぶっちゃけあまり喋らなくともpowerpointが見やすくわかりやすかったらそれでよくて。僕が1人で発表するときには本当に要点のみ話す、っていうのもやっているうちに身に着けたことで、それが評価されてきたんです。

濱屋:学校で、吃音を持っている生徒は中田さんが初めてでした?先生側に戸惑いはあったのでしょうか。

中田:いや・・最初先生に相談したけれど「中田くんなら大丈夫だよ。」と言われてしまって。僕の感覚的なところですけれど、僕がもっと話すのが難しかったとしてもやりようはいくらでもあって、たとえば文章の読み上げ機能をプレゼン中に使ってもいいわけだし、喋れないからといって大人数に向けてのプレゼンの場に出さない、ということもなかったです。

濱屋:情報のありかたは多様であるべきで、「コレが難しいならアレを使えばいいじゃない。」みたいなことがむしろ評価されていたんですね。大学ではあえて「伝える」「表現する」スキルを磨きにいったわけですけれど、そこで掴んだものは大きかったですね。仕事にも繋がる部分というか。

中田:なにか待っていたら何もなく終わってしまっていたと思いますね。

濱屋:精神的に、「なるべく話さないように」となってしまう吃音当事者の方ももちろん多いと思うんですが、そういった気持をどのようにもっていくかですよね。でも、そういう想いを持っている人たちの気持ちもわかりますよね。

中田:もちろんわかります。自分はどこかせっかちな部分があるというか、問題をみつけたら「どうすれば改善につながるか」と考え、とにかく行動したいんです。だから、リスクがあっても変われる可能性があったらとにかくやってみる。で、だめだったら「しょうがないかアハハ」というくらいの気持ちでやってみています。

心の支えとしての両親の存在

濱屋:お父さんお母さんは大学選びに反対はなかったですか?

中田:特に相談していたのは母親だったんですけど、母親のスタンスは今の僕に似てて、「やりたかったらやってみたらいいんじゃない?」と。「本当にだめだったら帰っておいで」とも言ってくれて。たぶん帰ってこないとも分かってて言ってると思うんですけれど、「最終的なフォローは絶対するよ。」という気持ちをもらったので僕もすんなりいけたというのはあるんですよね。大学進学で実家から離れること、プレゼンテーションの多い大学に行くってことも相談していたので、親としても不安がもちろんあったと思うんですけれど、送り出す決断をしてくれたのに感謝しています。自分なりに何かしら成果というか、自分なりに納得する経験をして、その経験を親に伝えることが僕の大学生活の目的と思ってたので、いろんなことにチャレンジできました。失敗もあったけれど、その失敗も言えるような関係だったので。逆にその失敗が言えなかったら、自分で抱え込んでいたかも知れないです。

濱屋:そういう関係になれたのはいつくらいでしたか?

中田:本当に、親から「反抗期がなかったね。」って言われるくらい親が大好きで。それは、僕が吃音の自覚がない早い段階から言葉の教室に連れて行ってもらったりフォローしてくれていたというのもありますし、もちろんサッカーの毎日の送り迎えとか、ご飯も作ってくれていたし。僕が感謝の気持が強かったので、おのずと信頼関係があったんです。

濱屋:そういう親御さんだからこそ、「挑戦」できる精神面での土壌が培われてきたんですね。失敗も含めて受け止めてくれて。失敗も話したいと思えるってなかなかないことですし、そういった深いつながりの中で支えてくれたお母さんだったんですね。

吃音と就職活動

サッカーのクラブチームに入るか、はたまた企業への就職か


濱屋:次に、就職活動の話をお伺いします。実際就活を始めたのは大学の3年生位ですか?

中田:動き始めたのは3年の11月ですかね。

濱屋:就職については在学中どのような感じで考えていましたか?

中田:ずっとサッカーをやってきたので、サッカーで就職というかクラブチームにはいりたいとも思っていてそれを軸に考えていたので、がちがちに就職活動をやっていたわけではなかったんですよね。

濱屋:なるほど、サッカーの方の就職も考えていたのですね。でも一般就職という方向に進んだのはなにか転機があったんですか?

中田:4年生のときに3つのサッカーチームからオファーの前段階みたいなお話をもらっていて。でも4年生の12月に怪我をしてしまいそのチームのお話はなくなって、将来的なことも考えたらサッカーでの就職の熱が冷めてしまって。そのタイミングで、内定へのお返事を待ってもらっていた企業が1社だけあったので、その企業に就職した、って感じです。

濱屋:サッカーは怪我がつきものとは聞いていますが、そのタイミングだったんですね。

中田:そうなんですよね。その内定をもらった企業というのが、大学4年の夏頃に1回札幌に帰って少しだけ時間があったので、そのときに就活した企業さんだったんです。

濱屋:大学でやってきた学んできたことな仕事選びにも直結しましたか?情報系というか、プレゼンを頑張って伝えることを多くやってきたわけで。

中田:そうですね、プレゼンは本当に役に立ちました。

面接で「吃音があります」と伝えるか否かについて

濱屋:大学入学や就職など新しい環境に入っていくときに「自分は吃音があります」と言ってきましたか?

中田:場所によりますね。大学のプレゼンのときにはメンバーには話していなくて、先生にだけ話ししてました。無駄に気を遣ってもらいたくなかったし、僕主導で発表したいときもあったりしたので。

濱屋:4年の夏の就職面接のときは「吃音があります」って言いましたか?

中田:言ってないですね。面接する中で、たとえばすごい吃音の症状がでて、面接官が少しでも「ん?」ってなったらそのときには言ってたと思います。「気づきました?」って感じで。

濱屋:特別、「言ってスタートしよう。」って決めることもなく自分のありのままでいって、変な空気になりそうだったらそこはしっかり伝えようというくらいの柔軟な感じで臨んだのですね。

就職活動に際し、「精神保健福祉手帳」を取得した話

濱屋:今回特にお聞きしたかったのが「手帳」についてなんですが、中田さんは吃音で精神保健福祉手帳を取得されていましたよね。実際に就職にさしあたり手帳をとろうと決めたのはいつ頃だったんですか?

中田:大学4年の夏頃ですね。

濱屋:今勤めてらっしゃる会社の面接が行われる前に手帳をとったんですか?

中田:そうです、夏前くらいに申請はしてて。手続き自体はそんなに時間がかからないものでした。

濱屋:手帳というものを知って、手帳を取ろうと考えたのはいつくらいですか?

中田:大学3年の終わりくらいですね。

濱屋:何で知りました?

中田:もともと手帳の存在は知っていて。大学で「事業計画」を立てて発表する授業があったんですよね。そのときは障害者支援の事業所を運営するという設定で。一般企業の障害者の雇用率は2%台で、でもそれってどういうふうにわかるの?ってなったときに、手帳があるなしだよねと。じゃあどうやって申請できるの?もしかして吃音でも申請できるの?ってなったのがきっかけですね。その授業が3年の後期頃だった気がします。

濱屋:なるほど、授業で取り扱う機会があったんですね。吃音でも手帳がとれるということはインターネットで知りました?

中田:インターネットですね。

濱屋:どう思いました?「とりたいな」とすぐに思えました?

中田:そうですね、僕の好奇心が働き(笑)。実際に取る手続きもやってみたかったですし。生活する上で何が変わるの?というのも知りたかったですし、取ろうっていうのは即決でした。

濱屋:困って困って・・・っていう状況でなく、取得までの流れなどのあれこれを知りたかったと。

中田:手帳を持つことでのデメリットが思い浮かばなかったので。時間もあるし、やってみたらいいじゃんと。

濱屋:興味だけではもちろんないとは思うけれど、その行動力はすごいなと思います。なかなか(手帳取得に)踏み切れない人たちも多いのかなと思っていて。

中田:どういった理由ですかね?

濱屋:そもそも吃音で手帳を取れるということを知らない方が多くいると思うし。(世間的には)手帳をとったら問答無用で障害者枠の就職になる?と誤解されているかもしれないですし。メリット・デメリットを含めて正しい情報が得られたら選択肢が広がる人も多いと思います。中田さんの経験は貴重ですね。

中田:自分の経験を他人にお話することが好きなんですよ。なので、吃音の経験もお話することは苦ではなく、誰かのためになるなら全然します。逆に言うと、手帳を持っていなければ本当に吃音かどうかもわからないよね、っていうのもありますし。自己紹介をする上でも、吃音というものを知らない人が多い中で、「吃音症っていう障害があります」っていうのを証明するためにも、持っておいたほうがいいかもと思う。他者に話す上で、そういうものがあるんだなと言う認知につながるので、抵抗はなかったですね。

濱屋:申請のための診断書を病院で出してもらったんですよね。

中田:そうですね、大学当時に吃音治療に通っていた関東の病院で診断書を書いてもらって、札幌市で申請したみたいな。

濱屋:吃音で手帳を取得し、気持ちの上で何か変わったことはありますか?手帳の存在というのはどういうものですか。

中田:そうですね、、手帳はお守りだったり、吃音であることの証明と思っています。吃音であること自体はマイナスとは思っていなくて。僕だったら、吃音をもっているからpowerpointのプレゼン資料も見やすさや分かりやすさにこだわって取り組んできたわけで。なので、自分が吃音であることを確立した上でもマイナスに捉えないこともできるなと僕は思うんですよね。

濱屋:吃音があるから考えられることや感じられることがあるというのは、そこに手帳という存在があるからっていうのもあったり。

中田:あと、手帳を持つことで国からの支援も結構あることは勉強になりました。

濱屋:実際にうけているのは?

中田:ガソリンは受けています。僕だったら年間で1万円分くらい安くなる。公共施設についても無料で使用できるものもありますし。

濱屋:吃音に特化したものでなくても、手帳の等級によってサービスや控除があるんですね。吃音に関連したものでなにかしらサービスがあれば、吃音当事者が手帳をとる意味も広がっていくのかもしれないですね。

手帳を持ちながらも一般就労で働くということ

濱屋:中田さんは手帳を取得しながらもそれを使用せずにお仕事をされているわけですが、吃音当事者が一般就労する上で手帳を取得しておくことの意義についてどう考えますか?

中田:たとえば、僕の感覚ですけど、吃音当事者で手帳を持たず一般で就職し、でも話すのは苦手なので電話対応はしたくないですって人の場合、会社側は「なんで?」ってなると思うんです。「そんなの聞いてないんだけど。」って。吃音が故の業務上の困難があって、手帳も持っていなかったら、本当に難しい業務があった場合に人に説明するときの根拠が薄いというか。「話しにくいなら電話でなくていいよ。」ってなった場合、本当に吃音じゃない人の場合も考慮されるのか?って話になってしまいますよね。なのでそういう意味でもお守り代わり、っていうのはありますね。

濱屋:中田さんは営業のお仕事をされているんですよね。中田さん含め吃音当事者が苦手とする「電話」はどうしていますか?他の人に受けてもらっていますか?

中田:自分で出ています。

濱屋:今は「これを配慮してほしい」という希望は特に出してしないんですね。実際に「これが難しいから、こうしてほしい」みたいな要望はどうしたらいいと思いますか?

中田:たとえば、「顧客からの電話対応はできないけれど店舗での対応は頑張ります。」という形で上司に話を通しておいて、電話対応だけ別の方がしてもちゃんと自分の実績になるようにチームで話をしてらえていたら問題にはならないかと思います。でも実際のところ、他のメンバーの実績を奪うことになったり業務負担が増えることにもなりかねないので・・業務の調整が難しいところです。

濱屋:中田さん自身、障害者就労でなく一般就労の方を選んだ理由は?

中田:障害者枠での就労に抵抗はないですが、どちらでもよかったという訳ではなくて。理由としては進みたい職種・業界にこだわりがあったり、すべて企業がその限りではないけれど給料水準が高くなる傾向にあるという点で、自分は一般就労の方が、と思って進んだんです。

濱屋:なるほどですね。一般就労か障害者枠での就労かで提供可能な合理的配慮の範囲も変わってくるわけで、当事者の方としてもどちらに進むべきか悩んでしまいますよね。

中田:障害者就労で給料が全員が全員低いかといったらそういうわけではなくて。僕の会社でも難聴の障害者就労の方がいるんですが、事務作業がめちゃめちゃできる方なんです。その人自身の高いスキルで必要とされる存在であり、お話を聞くにちゃんとした給料をもらっているんですよ。そういった強みがあるといいんだろうなと。

濱屋:自分が会社に必要とされる存在になっていけるか、は障害があるなしではないですもんね。いてもらわないと困る人になれるかどうか。手帳をもらって働こうとしている人にも、手帳をもってるけど一般就労で働こうとしている人にもどちらへのメッセージにもなりますね。

前へ進むために。中田さんとしての正解。

濱屋:今はSNSなどで得られる吃音に関する情報が増えてきた分、結局どうしたらいいのかかえって悩んでしまう吃音当事者の方も増えているかと思います。進学や就活に際して吃音を開示するかどうかや、手帳取得についても。正解はひとつではないですが、悩んだ時に中田さんならどう考えるか、どういうスタンスで臨んだらいいかというのがあれば聞かせてください。

中田:難しいですね。僕もすごく悩む時があって。挑戦するにも逃げるにも本当にいろんな選択肢がある中で、「どうしたらいいんだろう?」と漠然とした思いに囚われたりして。でも結果的に進めたときには、「どうなりたいんだろう?」という風に考えてて、色々が定まっていったことが多くあったんですよね。なので、行き詰まったときには「どうしたらいいだろう?」じゃなくで「どうなりたいんだろう?」と言うのをまず考えて、じゃあそのためには何をすべきか、という順番で考えるようにしています。「なりたい自分」があったら楽なんですけど、それがなかなか見つからない人もいるかと思うので、「自分が大事にしていること」から考えてもいいのかと思います。僕だったら「人に優しくする」ですし。人のいいところを見つけてそれを伝えることが大好きで、プライベートな場面だけでなく、仕事のお客さんでも「そのジャンパーかわいいですね!」なんて話しています。そういうやりとりで僕の人間性についても知ってもらって、お話している中で吃音症状が出て「ん?」って顔をされても、「吃音症でこういう喋り方なんです。」って伝えると「ああそうなんだね。」で済んでしまうこともあるし。「こういう自分を知ってもらう。」というのを一番重要視していてます。なりたい自分とか、誰かのためにしたいことを考えて、今現在できることから手を付けていくといいかと思います。

濱屋:色んな場面で、吃音当事者だからこそわかることがたくさんあると思います。吃音だけでなく、視覚や聴覚など様々障害はあるけど、それを意味に変えていけるまでが相当きつかったですよね。

中田:仰ってもらった通り、僕も吃音がなければ、人に優しくすることは学べていないと思います。人のいいところを見つけてその人に伝えるという行為って、僕が小中高の頃に溜め込んでいたものなんですよね。「この人こういう魅力があるんだな、言いたいな。」と思っていても、言うタイミングを逃したり、言うスキルがなかったので言えなかった。でも大学の頃に少しだけ話せるようになってきて、ポロッと言ったことがあって、それがすごく喜ばれたりして。なので、僕は「吃音があってよかった。」とは思ってないですけれど、良かった点ももちろんあると思っています。

濱屋:意味に変えていけるというところが素晴らしいですし、そういう思いをしてきたからこその精神的な強さや優しさを身につけてこられたんだなと、インタビューをさせていただいて感じました。

たくさん時間を頂き、お話を聞かせて頂きありがとうございました!!


中田さんのyoutubeチャンネル↓↓
自身の吃音についての発信や、歌もあります。


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