もっと!暁山瑞希の話をしよう、ひいては私たちと社会について
(⚠️本記事はプロセカのニーゴのユニットストーリーおよびイベントストーリー「荊棘の道は何処へ」の内容を踏まえて書かれています⚠️)
根本的な構造を見落としていました
瑞希のイベストがやべぇという記事を自分で書きつつ、他の方の感想記事を漁ったりTwitter(現X)でパブサをしている中で、自分にもなかった視点があることに気付かされました。それは、「瑞希の抱える罪悪感の根底には社会全体が持つバイアスがある」というものです。
いや〜〜〜盲点!!!確かに!!!!!!!
体の性=心の性=社会的に振る舞う性ないし外見、という前提が大きな流れとしてあるからこそ瑞希の「秘密」が生まれてしまったわけだし、前提が適用されない故の配慮をする必要が生まれてしまっている。
でも瑞希にとってはその「配慮」が心苦しいんですよね。今まで何の気もなしに関われていた親しい人の中に自分についての留意が生まれることが。
瑞希自身もその心苦しさを我儘だと考えているわけですが、俯瞰してこの構造を見てみるとその気持ちは別に抱いて当たり前なものだと分かります。普通でいたいと思うのは普通のことなのだから。
まあ抱いて当たり前とはいえ今ある世間はどうしようもないし、瑞希の葛藤も絵名の葛藤もその点個人の問題ではないことも多いから難しい。
瑞希の苦しみをコンテンツで終わらせないためにはどうしたらいいの???
先ほどどうしようもないこととは言いましたが、そもそも体の性=心の性=社会的に振る舞う性ないし外見、という前提を物語に組み込めるほど当たり前のものにしているのは私たちなので、現実世界の私たちも変わっていかなければなりません。
とはいえ本当にどうしたらいいんですか? まず人間社会がジェンダーから逸脱できた前例ってまだないから、まず無意識的なバイアスを見直すこと自体が難しい。そもそもジェンダーの概念ってどこから来たの?何者なの?どこへ行くの? 身体的な差異の考慮と社会的な意味づけの境界ってどこにあるの?
美緒生きていけないよぉおお
実はいま根付いてる倫理も常識も資本主義社会によって生まれた副産物にすぎないとかだったらどうしよう 学術的な知識が全然ない
それに「当事者は身の回りにもいる」っつっても所詮自分にとっては他人事の域を出ないじゃん 瑞希みたいに学校とかでオープンにしてる人って少数派の中でも少数派だと思うし でも「出会ったことないから」で済ませていたら確実に誰かを傷つける
それはそうとネットで出回ってる男女論とか、ロマンスやらセクシャルやらにやたらと身体性を持ち込む風潮は早く滅ぼしていかないといけないと思う みんなも協力してくれ
少数派の声がでかいのを笑うな
体の性=心の性=社会的に振る舞う性ないし外見であるという前提って結構デカく根付いてて、学校とかだと疑う余地もなくお互いをその前提に組み込んで扱い合う感じになるんですね。「男の子らしく」「女の子らしく」みたいな抑圧はだいぶなくなりましたけど、その根っこにある「あなたの戸籍は男(女)なので身体に関係ない物事にもそれを適用しますね」という前提までは変わっていない。
だから外見で分かりやすくないと自分がマイノリティであることを言いづらい。そこには瑞希が抱えているような「留意が生まれるのが辛い」という言いづらさや、そもそも言ったからと言ってどう扱ってもらいたいのかの言語化が難しいという壁がある。そもそも友達同士って結構性に対してフラットなんだから所々我慢していれば全然楽しく生きていけるし、留意が生まれてしまうほうがデメリットになることもあるわけで。
こうして少数派が多数派に組み込まれていると声を上げようとする人はもっと少数派になる。多数派の圧力によって少数派が多数派の圧力に加担してしまう状況が生まれるんです。だから多数派はせめて声を上げる人のことを笑ってはいけない。多数派のふりをしているなら尚更ね。
まとめ
自分の属性とアイデンティティの社会的な乖離を隠さないことを一概に良いと言えるわけではないんですが、それでも自分のしたい格好をすることからは逃げなかった瑞希って十分自分と向き合えてると思うんです。そんな強くてカワイイ瑞希が私は大好きなんだ。たとえ悲しい結末になっても瑞希が、ニーゴのみんなが進む先を見守っていたい。(コンテンツの形式?性質?的にニーゴを脱退することはないと思うけどね )
以上、新しく得た知見と日頃から薄々思っていたこと書き散らしでした。
気が向いたら加筆修正するかも サンキューフォアリーディング!