掌編小説『勘弁してくれ』

 ぎしぎし軋む階段を降りると、白い割烹着姿で厨房に立っていた千佐が振り向いた。
「あれ、どうしたの拓巳」
「便所」
 小さく呟いて厨房の横の珠のれんを右手でかき分けてくぐる。すると一斉に八個の目玉が俺を突き刺した。
 L字型のカウンターに、今日の客は四人。サラリーマン二人組と最近常連になった赤ら顔のオヤジ、厚化粧のおばちゃんだ。
 裏通りにひっそり佇む千佐の店は、十人座ればもう満席という小さな小料理屋だ。今日は平日の夜ということもあってか、客の入りはいまいちなようだった。
「わあ驚いた。急に出てくるから」
 一番近くの席に座ったおばちゃんが、日本酒のグラスを握りながら目を見張った。瞼の上を真っ青に塗りたくったその客は、俺のことを上から下まで三往復じっくり眺めると、ほうと息をついた。
「男前ねえ~」
「え~。いやいやそんな……」
 千佐が照れたように顔の前で手をぶんぶん振る。俺はそのおばちゃんに向かって「っス」と一応の挨拶をすると、サンダルを足に引っかけてトイレに入った。
 安普請のこの建物は音が筒抜けだ。閉じたドアの向こうから、千佐が平謝りする声と、おばちゃんのけたたましい笑い声が聞こえてくる。ということは俺が今立てているちょろちょろという音も、きっとあっちに聞こえているだろう。
「すいません。ここ、二階にトイレがなくて。お店のトイレ使わせてもらってるんですよ」
「構わないわよ~、あんなイケメンなら大歓迎!」
 調子がいいことを言って笑っていたおばちゃんは、トイレから出てきた俺を見ると、わかりやすく眉根を寄せて話しかけてきた。
「あなたも大変ねえ。下のお店にしかトイレないんじゃ気を使うでしょうに。おしっこ我慢しちゃだめよ」
「別に……」
 それだけ返事をして奥に引っ込むと、千佐が横目でじろりと俺を睨んだ。
ーーもっとお客さんに愛想良くしてよ!
 千佐はいつもそう言って怒るけど、そんなの必要ねえだろうが、と俺はいつも思う。どうせどの客も、自分の頭の中で好き勝手に俺と千佐が登場するストーリーを作りあげて、訳知り顔で笑うだけなのだから。
 俺はいささか乱暴に階段を上りきると、狭い廊下の隅にある冷蔵庫からコーラを取り出した。勢いよく飲み干していくと、胸の中のイライラが炭酸の泡に溶けていくような気がする。
「おっし」
 俺は呟き、茶の間へ続く襖を開けた。あぐらをかいてすり切れた座布団に座る。
飴色に光る楕円形のちゃぶ台の上には、くたびれた問題集とノートが広げてある。この使い古された問題集は今日、先輩に譲ってもらったものだ。練習が終わった更衣室で、『こんなに書き込みあったらわけわかんなくねえ? 新しいの買えよ』と不思議そうにする先輩に、『いやいや、十分っすよ~』と答えた俺を、ロッカーの扉に隠れて何人が忍び笑いをしていただろう。
 小さく息をつき目を上げると、古くなって剥がれかけた襖が目に入った。薄っぺらい襖の向こうは寝室にしている六畳間が、そのさらに奥には物置になってる四畳半が続いている。十人そこそこしか客が入れない店の二階がそう広いわけはなく、俺と千佐が暮らす部屋はこれで全部だ。
 あいつらがここを見たら『狭っ、ボロボロじゃん』とでも言うだろうか。一人で想像して腹が立ってきた俺は、一人で「くそっ」と小さく呟いた。
他人から見れば古くて狭くて汚いこの店も家も、今まで千佐が必死で守ってきた場所なのだ。俺たち二人の生活が永遠に続くことはないとわかっていても、俺の大事な場所であることには代わりはない。そう思う一方で、醒めた目でこの家を眺めて馬鹿にする俺自身もどこかにいる。やるせない怒りの矛先が最後に向かうは、そんな自分に対してだった。
 開け放った窓から、真夏の夜のぬるい風と、隣のスナックの客が歌うへたくそな演歌が流れてきた。トタンで出来た屋根の上を、黒猫がのんきな鳴き声をあげて渡っていく。自分にまとわりつくすべてのものを遮るように耳栓を両耳につっこみ、俺はシャープペンを握った。

小一時間は勉強しただろうか。時計をみると十一時になるところだった。さっきがぶ飲みしたコーラが尿意に変わっている。俺は立ち上がった。
階段に足をかけると、踏み板はいつも大げさな悲鳴を上げる。俺は階段が抜けるんじゃないかとヒヤヒヤするが、千佐は「そうなったら梯子かけようね」と大まじめに言うのだ。
千佐という女はすべてにおいてそんな調子だった。ゆで卵のような白い顔は化粧をしなければ中学生のようで、今年で三十五になるというのに、ブランドのバックよりランドセルの方がはるかに似合う。中身もやはり薄ぼんで、何も無いところで躓く、ピアスは買ったその日に片方なくす、買い物袋の中身はぶちまける。挙げだしたらキリがない。この店を一人で切り盛りしているのは奇跡だといつも思う。
俺の巨体にぎしぎし文句をいう階段に辟易しながら一階に下りたが、厨房に千佐の姿がない。不思議に思いながら店の方を覗いた。と同時に大きなため息が出そうになる。
俺はサンダルをはいて店に下りると、一番手前の席にどっかりと座った。
カウンターの真ん中の席に座った赤ら顔の禿オヤジと、その隣で酌をしていた千佐が目を丸くして俺を見る。
「……どうしたの、拓巳」
「腹減った。なんかちょうだい」
 低い声でつぶやくと、千佐はしょうがないわね、と笑って立ち上がった。
「なんか作るから」
 千佐は俺の後ろを通り厨房へ入っていく。その姿を見送った俺は、次に禿オヤジを横目でねめつけた。
 最近よく来る常連だ。隣町の建設会社の社長かなんだか知らないが、でっぷり肥えた三段腹といい、頭のてっぺんと耳の後ろにだけ残ったわずかの髪の毛といい、真っ赤になって汗をだらだらかく姿はさながら水から上がった河童だ。
「なあ」
 俺は客から視線を外して、厨房の中に声を掛けた。千佐は「なに~?」と言いながらなぜか小振りの土鍋と冷凍うどんと冷凍ごはんを取り出している。いったい何を作るつもりなんだろう。真夏だというのに、鍋焼きうどん? いや雑炊か?
 今まさに作り出されようとしている夜食に不安を感じながらも、俺は口を開いた。 
「来月の柔道の県大会、優勝したら小遣いあげて」
「えぇ~? ていうか優勝出来そうなの?」
 千佐は半信半疑な様子だったが、俺はきまじめな顔で頷いた。
「今なら片っ端から全部やっつけられる自信がある」
「ふうん、まあ考えておくわ」
 千佐がのんびりと笑ったとき、横の客がそそくさと立ち上がった。強ばった顔で逃げるように帰って行くのを見て、俺はふん、と荒い鼻息を吐いた。
ーーもう来んじゃねえよ。このエロオヤジが。残った髪の毛も禿げちまえ。
 俺は念力だか怨念だかを込めながら、最後の客の背中を睨みつける。俺はさっき見ていたのだ、千佐の肩に手を回していたのを。
 内心で毒づいていると、見送りに出た千佐がのれんと看板を抱えて戻ってきた。
「今日はこれで終わりにするわ」
「あっそぉ」
 千佐はもう一度表に出ると、今度は信楽焼きのタヌキと河童の置物を抱えて戻ってくる。
「……そのタヌキとカッパ、看板の横に出すのやめねえ?」
「え~どうして? かわいいじゃない。もっといろいろ置きたいけどこれでも我慢してるのよ」
 千佐の言葉に俺は頭を抱えたくなった。
 どうしてか駄目かだって? そんなの決まってんじゃねえか。その置物が呼び寄せてんだよ、さっき帰ったエロガッパとかタヌキオヤジを。昨日だって変なオヤジに「二号さんにならない?」って誘われてただろうがよ。今でさえそうなのに、これ以上変なもの置いてみろよ。モアイ像みたいな奴とか、忍者とか、未確認飛行物体が店に来たって俺はもう驚かねえぞ。
俺は小娘みたいに首を傾げる千佐の顔を見て、大きなため息をついた。
ーーーーそんなんだから何回も便所に下りてこないといけなくなるんだよ、勘弁してくれよ、千佐おふくろ

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匿名闇鍋バトルというカクヨミ上の短編コンテストに出したものです。これは出題されたお題の中から好きなものを使って制限字数以内で短編を書き、読者からの応援の数で順位を争うというもの。
今回は「永遠」「鍋焼きうどん」「ニンジャ」「河童」「黒猫」「うた」「日本酒」「未確認飛行物体」「モアイ像」《叙述トリックの使用》《飯テロ要素の使用》「念力」「ピアス」の13個のお題を使い、3200字以内で書きました。
……難しかった。最終順位はちょうど真ん中くらいでした。