【コラム これからの保育のために】第11回 「盗んで覚えろ」がダメな理由

いまでも保育研修をすると、ベテラン保育士から「仕事は盗んで覚えろといわれてきました」という反応がしばしばあります。

世間一般には同様のことを言われて一人前になってきた人もたくさんいるので、もっともらしく感じてしまう人もいるかもしれませんが、この理解は専門職としては大変リスクのあるものです。

・不適切なものもそのまま身につけてしまう
・価値観の変化に対応できない
・多様な個性に対応できない
・検証可能性の問題 (言語化できない、思考できない)

問題点はいろいろあるのだけど、たったひとつの問題提起でこの「仕事は盗んで覚えろ」は破綻します。
その問題提起とは、

「その考え方では悪い保育をしている人から悪い保育を身につけてしまいませんか?」

です。

そして実際にこのことは頻繁に起こります。

施設全体が支配的で高圧的な保育をしているところでは、そこに入った若手の新人保育士がほんの数年でそれに染まります。
その保育の不適切さに気づける人は、そこで長く働くことはあまりありません。
給与やさまざまな事情でそこで働き続けねばならない人もいますが、モチベーションはあがりませんし、専門的なスキルのあげようがありません。
精神的な疲弊も大変大きいです。

保育は、学問的に整備され、それを専門的なカリキュラムを通して学び、国家資格で定められている職です。
本来ならば、少なくとも主要な部分は言語化できるはずです。

しかしながら、保育現場の実際は、まるで職人芸であるかのように考えがちで、理念や理論、方法論の議論が軽視される傾向がありました。

こうした保育界のあり方は、保育の専門性に大きなマイナスの傾向をもたらしていたと考えられます。

◆教えることで一人前になる
おそらく多くの業種では、中堅や新人を脱したくらいの人に新人の育成役をさせるという取り組みをしていることでしょう。

これは新人を育てる以上に、その教える側の人がその過程を通して、一人前になる効果があると言われています。

保育界にはこれが希薄ではないでしょうか。
職務を後輩に伝えることを通して、その人が言語化、実践と理論・理念のすりあわせ、責任感や主体性などを培っていきます。

しかし、これまでの保育界はそうした研鑽よりも、「属人性と人格主義」が蔓延していました。

努力、頑張り、自己犠牲、愛情、優しさ、思いやり

こうしたお気持ち重視の価値観ゆえに、専門的な研鑽からかえって遠のいていたと考えられます。

こうしてあらためて、最初の言葉「仕事は盗んで覚えろ」を振り返ってみると、そこにはいま挙げた「努力、頑張り、自己犠牲」を要求するスタンスが見え隠れしているのがわかるのではないでしょうか。

たしかに全ての細かいことまで言語化して若手に伝えるのは現実的になかなか困難です。なので、結果的に見て覚える部分があるのも事実ではあるでしょう。

しかし、保育の重要な部分すら言語化して伝えられないというのは、専門性ある職業というには遠いものです。

いま保育界は、こうした体質的な部分も更新していくことが求められているでしょう。

※職人の世界では「盗んで覚えろ」はギリギリ成立します。なぜなら、できたモノと作り手の因果関係が明確だからです。
しかし、保育は人を育てる仕事なのでそうはいきません。
保育の明確な落ち度であっても、「子供のせい」「親のせい」にして責任を回避できてしまいます。
しかし、言語化して考える姿勢をもっていないと、そもそもその人はその保育の問題点を気づくことすらできないことでしょう。


保育士おとーちゃんこと須賀義一です。 保育や子育てについて考えたことを書いています。