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僕は子どもを「怒る」

子どもを怒らずに叱る。

それが良いと思っていたし、そのように識者達は言っている。

うん。確かに自己肯定感は育ち易い。

でも僕は感情的にも怒ります。怒ることにしてます。でもそれは気分で怒るだけではなくて怒り時を自分なりに見極めて怒ります。

当然子どもは恐怖以外の何物でもありません。これらの感情

・怒り
・恐れ
・憎しみ
・妬み

所謂、「ネガティブな感情」は悪であるとされてますよね?これらの感情によって犯罪が起きたり、結果的に自分が損するように出来てますから。自身の経験と照らし合わせてもそうです。

だからこそ僕は怒るし、子どもたちは僕の怒りに恐怖します。

理由はシンプル。

これらの感情は必要だから備わってるから。問題はこれらネガティブな感情と向き合う術を持たないこと。これらネガティブな感情に振り回されないこと。ネガティブな感情をマネジメントできないことです。

これらの感情を消すことは不可能です。あ、僕は妬み系だけは完全に僕の人生から消せましたが。

子どもたちは物事の輪郭が曖昧で、本能的に備わってる曖昧な倫理観しかありません。この輪郭の形成をサポートするのが親です。

シンプルに言えば、やって良い事、悪い事の区別をつけるのは理性と言われてますが、裏を返せばネガティブな感情との向き合い方の問題。怒りもせず、甘やかしまくられた子どもは人前だろうがパンツを脱いでここでオシッコするぞ!と暴れます(うちのスクール児童の実話)ここら辺は想像つきますよね?

怒るとやめます。これは怒り時です。当然しょんぼりしますし、固まります。だからこそ親が怒ってあげるのです。子どもが成長するにつれ、自分に怒りを向けてくる対象は次第に難易度が増します。皆さんに怒りを向けるかもしれない相手と起こりうる事象を考えればわかるでしょう。難易度が上がるほどお金もかかるし、再起も難しい。

だからこそ、親が怒る。そういった衝突を通じて曖昧な輪郭にフチをつけてゆく。そのフチは年齢と共に何度も壊され、再形成されます。それらの経験がないと自分のエゴ、我儘が自己肯定感の境界と曖昧になり、「ブチギレ」します。最近のスシローナメナメ系や迷惑系YouTuberも同系統です。

親は唯一と言ってよいほど、恐怖からのリカバリーが完璧なレベルで出来る存在です。

子どもを感情的に怒るのが問題じゃないのです。怒った親が自分自身を正当化しすぎるのが問題ですし、結果として愛情表現不足なのが問題なんです。

通常、子どもは自分が愛されていることを「当たり前」として受け止めてます。皆さんも経験ありませんか?

どれだけ怒っても数分後にはケロッとしてキャッキャと遊ぶ我が子をw

それは怒られても愛されていることに疑いがないから。大人は違います。派手に怒りの感情を向けてきた相手に5分後何事もなかったかのように友情を示すことできます??

だからこれは神に与えられた有期限のボーナスタイム。

ダメなのは怒ることではなく、子どもが愛情を感じなくなること。どれだけ怒っても10分後にこうしてみてください。

「さっきは怒ってゴメンね?でも私は◯◯が大きくなった時に◯◯になってほしくないから」とか言い方はそれぞれで良いのですが、抱きしめながら愛していること。ダメなものはダメなこと。◯◯したら◯◯となる因果の概念を打ち込むこと。


怒られても倍する愛情と怒られた理由がわかれば子どもは納得します。

もう一度言います。ネガティブな感情は必要な感情です。だからそれらと向き合う術を学ばせるのは親の仕事。親も人間で感情があるのが当たり前。

そう言った意味では親がある意味1番そこら辺の練習相手としては最適です。

「ただの人間」である親が失敗し、謝って、ありがとう!を言って…親は子どもに何か教える存在ではありません。教えることは教わること。そうして共に育つのが洞察力もある愛情深い人間形成の一助になると思っています。

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