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考えごと日記その13 「日本は明治維新からアメリカの不沈空母だった」という仮説から考える

いま幕末明治維新について考えている。そして以下は「日本は明治維新からアメリカの不沈空母だった」という仮説のもとでの論評だ。あくまで歴史ド素人のボクが自分なりに考えたことなので、歴史の詳しいかたからすると見当違いやトンデモ論のたぐいに見えるかもしれないが、どうか大目にみていただきたい。

大航海時代、欧米列強はアジア全域を植民地として支配したが、どうも日本と清(中国)は後まわしにした観がある。アジアの中でもとくにこの二国は文明が発達していたので、列強はなかなか手が出なかったのではとボクは考える。

文明の低い国を植民地にするときは、だいたいパターンがあるように思うのだ。まずはデカい船、鉄砲、鉄の剣とよろいで相手国をビビらせる。つぎにその国の長と会ってビビらせ、意のままに操る。そしてうまいこと操って内戦が起きるようにしむける。内戦がおきて国がぐちゃぐちゃになったところで、列強の兵がぞくぞくと入ってきて植民地にしてしまう。これがおおよそのパターンだ。

ところが日本と清はデカい船や鉄砲や鉄の剣を見せるだけでは、ビビらせて意のままに操ることができなかった。なにしろ日本と清はほかのアジア諸国とちがって、列強と同じ鉄砲や剣を自ら作って操っていたからだ。

そこで英国は清を相手に不平等条約をむすんで、お金を搾取し国力を低下させようと考える。そしてぼっ発したのがアヘン戦争(1840年)とアロー戦争(1856年)だ。これは英国が清に対して難癖をつけて、あえて仕掛けた戦争だ。黒幕はパークス。それまでと違って英国は、本気で清を植民地にしようとするのだ。

この2つの戦争で清はけちょんけちょんにやられ、香港は取られるは、国民の多くがアヘン中毒になるは、二度にわたって不平等条約を結ばれるはで、清は英国に半植民地にされてしまう。

ボクが考えるに、米国はこれを真似して、日本を植民地にしようとしたのではなかろうか。日本は鎖国とはいえ、英、仏、蘭、米などがすでに長崎で出入りしていた。しかし最初に本格的に開国をせまったのは米国の黒船だ。

そして調べたらなんと、そのときの将軍家定は米国と接見してるではないかッ。1857年に外交官で初代駐日公使であるタウンゼント・ハリスとだ。このときすでに、家定の代わりに幕府を動かしていた老中・阿部正弘は亡くなっている。暗愚であった家定と接見したハリスはこのときの幕府の姿を見て、日本植民地化はイケると確信したにちがいない。

そして米国は日本植民地化に本気でのりだす。幕府に対して不平等条約の締結をせまるのだ。英清のアヘン戦争を持ちだして、幕府にせまるというより脅してきたにちがいない。アヘン戦争など知らん下級武士らは異国を追い払えと簡単に言うだろう。しかし幕府からしたらここで条約締結を跳ねのけて戦争にでもなったら、日本も清と同じ目にあうと考えるのはなにも不思議ではない。

条約を締結すれば国力を搾取される。跳ねのければ戦争。そしてお隣の清は英国と戦争をして為す術なくボロボロに大敗。四面楚歌、八方塞がりとはこのことだろう。大老・井伊直弼の心中はどのようなものだったろうか。

調べていくと、ここでひとりの怪しい米国人が浮かびあがってくる。名はアントン・ポートマン。ハリスの通訳をつとめた人物だ。ハリスが病気を理由に退任したあと、ひとりはさんで3代目の駐日公使となる。ちょうど戊辰戦争あたりだ。

ポートマンは通訳をつとめるくらい日本語が堪能だ。当時、日本で鉄道を敷く計画が進んでいたのだが、そのときポートマンは得意の日本語をたくみに使い、日本の鉄道の権利を米国がにぎるよう模索したようだ。

つまり鉄道を敷くのも利用するのも日本人だが、お金は米国に流れる仕組みだ。結局これは英国駐日公使パークスによって阻まれるのだが、しかしこの行動は、米国が日本を植民地にしようとしていたことがじゅうぶん過ぎるくらいわかるものだ。これほど露骨なことをやろうとした人物だ。ほかにもなにかたくらんでいたかもしれない。

またここで気になるのが、阻止したのが日本人ではないことだ。パークスは日本との貿易利権をめぐって米国と争っていたので阻止しようとするのはわかる。しかしここで、最も不利益をこうむるはずの日本がなにもできなかったのだ。

通説では「異国に負けない強い日本をつくる」となっている幕末明治維新。しかしこのときすでに日本は、米国と英国にいいようにされ始めていたのでは、とボクは感じるのだ。

その後、日本では戊辰戦争がぼっ発する。内戦だ。内戦をおこすのは、列強が異国を植民地にするために弱らせる常套手段だ。清もアヘン戦争のあとに太平天国の乱という内戦がおきている。英国はその内戦の混乱に乗じてアロー戦争を仕掛けたのだ。

戊辰戦争はどうなんだろうか。他の国々の内戦は列強がからんでいるのに、日本だけがからんでいないことがあるだろうか。むしろ戊辰戦争も列強がからんでいるというほうが自然のように思うのだがどうだろう。

ボクはむかしから戊辰戦争で不自然に思っていることがいくつかある。そのひとつに岩倉具視が発案したとされる錦の御旗だ。そしてこれはニセモノだったと言われている。このニセモノの錦の御旗が戊辰戦争の勝敗を決定的にしたといっても過言ではないのだ。

ところが幕末明治維新の立役者というと西郷隆盛や坂本龍馬ばかりがもてはやされて、岩倉具視の名はあまり出てこない。なぜだろう。じつは発案したのは岩倉具視ではなく、別の人物というのは考えられないだろうか。

戊辰戦争の黒幕で、薩長に勝たせようとした人物だ。その人物が岩倉具視に耳打ちをしたのだ。日本に内戦がおきてそこで薩長が勝利すると得をする人物。それが誰だかはわからないが、個人的には英国か米国の誰かのような気がしてならない。

その岩倉具視だが、明治維新から3年後の1871年、欧米に岩倉使節団を送る。使節団の目的として、欧米の視察というのはよく知られている。しかし最大の目的は「不平等条約の改正」だ。やはり明治政府にとって、不平等条約は最大の重荷だったことがうかがえる。そして幕末明治維新の本当の闘いは「不平等条約の改正」だったようにも思う。ところがこの岩倉使節団の交渉は、残念ながら失敗するのだった。

そんな岩倉使節団だが、その行き先の順番に目を向けてみよう。ひとつ気づくことがある。最初に向かった国は、なんと米国なのだ。その次に英国。当時の情勢を考えると、最初に英国が普通ではなかろうか。そこをあえて米国というところに、岩倉および日本にとっての外交の最重要国は、やはり米国だったことがうかがえるのだが、考えすぎだろうか。

話をもどす。仮に戊辰戦争は英国か米国が仕向けたものだったとしよう。するとつぎのパターンとしては内戦の混乱に乗じて自国の兵を送りこみ、一気にその国を滅ぼすのだ。ところがそれがないのだ。それどころが日本は明治維新をむかえ、新しい国家を形成するではないか。なぜなかったのだろう。

そこでボクが気になるのが、勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城だ。西郷は徳川慶喜が政権を放棄したにもかかわらず、革命は血を流さなければいけもはんッと言わんばかりに、半ば強引に戦争を始めた。ところが徳川の居城である江戸城をまったくの無傷のままやり過ごすのだ。

たしかに勝海舟の頼みごとではあっても、江戸城を残すということはどういうことだろう。そして江戸城を残すべき理由が、列強につけ入るすきを与えないとか、江戸の人々を守りたいとか。それで西郷が納得って、どうなんだろう。薩長にメリットってあるのだろうか?ボクは……う〜ん……ないように思うのだが……。

そこで「日本は明治維新からアメリカの不沈空母だった」という仮説、つまりこのときすでに黒幕として米国があったとする。米国が日本を植民地ではなく不沈空母、つまり従属国にするためには国力が落ちては困るのだ。むしろ日本は、米国には歯向かわない強い国であってほしいはず。そのため、江戸城を日本のシンボルとして残すことは米国にはメリットがあるのだ。太平洋戦争でも昭和天皇を残したように。

そして国力をなるべく落とさずに幕府を倒し、明治維新で強い国家を作ってもらい、従属国としてアジアににらみをきかせることが米国の思惑だ。そうすると、なぜ明治維新が成功したのか、なぜ日本は数年で劇的に変化できたのかもつじつまが合う。米国が支援したのだ。だから岩倉使節団は最初に英国ではなく米国へ行ったのだ。

勝海舟は米国から指示されて、江戸城は攻撃しないよう西郷に伝えただけなのではなかろうか。西郷も大政奉還があったにもかかわらず、米国の指示によって強引に戦争したのではなかろうか。つまり幕末明治維新はすべて米国の思惑と指示によってなされたものではなかろうか。

英国は清の植民地化で手がいっぱいだったことと、ロシアににらみをきかせることができるのならば、ということで日本を米国に譲ったかたちになったのでは。日本も植民地ではなく米国の従属国となれば、とりあえずは列強の植民地となる脅威はなくなる。そして清のようにはならずに、独立した強い国家を作ることができるのだ。

どうだろう。これはあくまで「日本は明治維新からアメリカの不沈空母だった」という仮説からの論評なので、そもそもその仮説がおかしいという意見もあるだろう。しかしこの仮説をもとに考えると、ものごとのつじつまがおどろくほど合うように思うのだが。

最後に、ここまでこんな歴史ド素人のボクの妄想に長々とお付き合いいただき感謝を申し上げる。おそらくツッコミどころ満載だったと思うが、そこはどうか大目にみていただきたい。まだまだ勉強不足ではあるが、こうして妄想を広げるのは、うん、じつに楽しいのだ。そしてボクの歴史探訪はまだまだつづくのであった。

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