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ブラタモリ日記その27 「天橋立 #172」 セレクション(2021.1.9)

天橋立は日本三景のひとつらしい。知らんかった。松島は行ったことがある。宮島は写真でよく目にする。でも天橋立って…。そもそも天橋立という字が読めんかったがなッ。はずかしぃ〜ッ。いかんいかん、もっと教養というものを身につけなければ……。

その天橋立。股のぞき台のある南側が観光のメインのようだが、さすがブラタモリ。番組は北側がメインとなる。

南側は天橋立駅ができた大正時代になってから発展した。いっぽうで北側は、奈良時代に聖武天皇が国分寺を建立したところから始まり、江戸時代までの長いあいだ栄えたのだ。歴史の重みが違うのだよ、うん。

番組を観るかぎりでは北側はそう派手な観光スポットはなく、国分寺もただの跡地となっている。でもね、観光というのはただ景色をみてご当地グルメを堪能するだけではないのだ。何もなくなった跡地をながめながら、歴史の栄枯盛衰を感じて思いを馳せるのも観光なのだ。

いつの日か天橋立に行くことがあったら、ボクは南側には目もくれず、真っ先に北側へ行って国分寺跡地をみて、そして高台から貝原益軒と同じ目線で天橋立を観てみたいね。



天橋立

「なぜ人々は天橋立を目指す?」

天橋立(あまのはしだて)→ 全長3.6kmの砂州と呼ばれる地形

砂州 → 海に砂れきが細長く堆積してできた地形

6000本の松

股のぞき台
股のぞき台から見た天橋立
飛龍観(飛ぶ龍)

股のぞき台から見える風景 → 飛龍観(飛ぶ龍)

年間300万人、日本三景(天橋立、松島、宮島)

貝原益軒(かいばらえきけん)

貝原益軒(かいばらえきけん)→ 己巳紀行(きしきこう 1689年江戸時代)→ 「日本三景の一とするも宜也」

成相寺(なりあいじ)→ 貝原益軒が天橋立を見た場所 → 北側から見た天橋立が江戸時代に日本三景に数えられた風景

成相寺(なりあいじ)


北側から見た天橋立

丹後国風土記(たんごのくにふどき 奈良時代)→ 天にのぼるために立てかけた「はしご」が寝ていたときに倒れてしまった → 神の仕業(神聖視)→ 天椅立 → 天橋立


丹後国分寺跡

丹後国分寺跡 → 礎石 1辺 18m

国分寺 → 奈良時代に聖武天皇が仏教による国づくりのため、各国に建設を命じた寺


雪舟 天橋立図
国分寺、金堂、五重塔

雪舟の天橋立図 → 約500年前

国分寺、金堂、五重塔が描かれている

現在は宮津が中心だが、古代は北側が中心

天橋立

天橋立が防波堤になることによって非常に穏やかな海

丹後国に港ができる

江戸時代になると舟屋が建つ

丹後国の港
舟屋

舟屋 → 1階が海に直結した「船置き場」になっている建物。海岸ギリギリに建つ独特な構造をしている

波が穏やかだから可能

天橋立神社

江戸時代中期から後期にかけて天橋立は長くなる

長くなる前は船が参詣の手段

長く伸びてきたので、大正時代に橋を架ける → 歩いて砂州を渡れるようになる

京都方面から多くの人が南側を経由して観光に訪れるようになる → 南側が観光地として発展し始める

南側が観光地として土地が足りなくなり埋め立て

埋め立てて天橋立駅をつくる(大正14年開業)→ 観光の玄関口となり、京都方面から多くの観光客が訪れるようになる → 南側が発展した


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