ある日、日記が書けるようになった男の話

日記というものには、かねてより憧れがあった。

その丁寧で文化的な響きに、誰もが一度は日記を書こうと奮い立ったことがあるのではないだろうか。私も例外ではなかった。

良質な紙と好みのペンを買い揃え、机に鎮座させたこともあれば、どんな環境からでもアクセスできるアプリで日記を書く環境を整えたこともあった。

しかし、私の日記は続かなかった。一日ともたなかったのだ。

幼少期から継続力が自分の人生の課題だったとはいえ、三日すら続けられないのは、継続力以前の問題だろう。
「三日坊主」というゲームを初めて3時間で手に入るようなトロフィーさえも解除できなかった私は「一日妄想ハゲ」くらいがお似合いの称号かもしれない。
端的に言ってカスだ。

でも不思議なことに、文字のSNSであるTwitterだけは10年以上も続けられているのだ。
誰も見ていなくても、自分の考えや感想を垂れ流し続けられるのである。

嫌気が差してくる。

Twitterはできるのに日記は書けないなんて、なんて非文化的で社会不適合な感じなのだろう。
「短い文章は書けるけど、長い文章は書けないんだね~クスクス」と笑われているようで恥ずかしい。

「Twitterでの自分は、長大な考えの中からエッセンスだけを抽出して140字の情報の塊を産み出しているんだ」という妄想も、実は140字という短さによってかろうじて書けているだけで、本当は長大な考えを表現する力もなく、むしろ長大な考え自体がないのではないかという恐れがあった。
早くここから脱出したかったのだ。

もちろん、誰もそんなことを言ってきたわけではない。これは自分の執着が産み出した幻聴の類だ。



「Twitterしかできない自分」を脱出するために、なぜTwitterは続けられているのか、なぜTwitterでは文章を書けているのかを分析してみた。
すると、2つの事実が見えてきた。


1つ目は、Twitterは常に止まらない思考を一時的に書き出すための場所だったということ。
2つ目は、今まで日記のことを「今日の出来事のエモまとめ」だと思っていたということである。

Twitterを続けられている理由は、常にTwitterに書くべきことがあるからだ。

使命があるわけでも、崇高な理論を啓蒙しているわけでもないが、自分の頭の中は常に考えごとでいっぱいなのだ。
頭の中だけでは、思考はもやもやとした泥のようで、その姿を確かめるにはぎゅっと固めてやる必要がある。
そんな泥団子を作る場所がTwitterだったのだ。つまり、書くための材料には困っていないのだ。いつも泥だらけなのである。

そして、自分は大きな勘違いをしていた。
今まで日記というものを「今日の出来事のエモまとめ」だと思っていたのだ。
これが日記を書くということのハードルを爆上げしていたのである。

小学生の夏休み、絵日記はいつだって「今日何をしたか」だった。
自分は本当に絵日記というのが苦手で、一度だって提出できたことはない。絵日記に負け続けた人生だったのだ。

そんな過去のせいだろうか、自分にとって日記とは「今日の出来事のまとめ」だったのである。
そもそも「今日という日のできごとは日記にまとめておきたいな」と思える日なんて、月に一回あるかないかだ。

他人が習慣として書く日記は、どこかエモいなと思う。
毎朝、豆から挽いてコーヒーを楽しんでたりするし、多肉植物の成長を喜んでいたりする。自分にできることと言えばインスタントコーヒーを飲んで、道路の工事が今日も進んでないのを見るくらいだ。
そんな、毎日を日記に残せるくらいエモく暮らすのはしんどすぎる。

一日の終わりに「今日は何も書けることがなかったな」と思いながら、些細なできごとをエモに昇華するために必死に取り繕うけど、それも成し遂げられなかった。
でもTwitterは続いていた。

だったら「今日考えたことのごった煮メモ」なら日記にできるのでは?
「今日の出来事のエモまとめ」じゃなければ書けるかもしれない。そう思い至ったのだ。


常にメモアプリを開くことにした。
タイトルに今日の日付だけをつけて、思いついたこと、考えたことのすべてを書いた。
今まで自分が考えていた日記とは程遠いものだったが、文章はどんどん長くなっていった。

ささやかな抵抗として、一日の終わりに日付だけのタイトルの後ろに抽象的なタイトルをつけた。「日記の始まり、エモまとめとの別れ」みたいに。

こうして自分は日記が書けるようになった。
まだ一週間しか続いていないが、もうすでに勝ったも同然だろう。なんせ書くことは無限にあるのだから。
それに文章を書く習慣自体は、Twitterのアカウント作成日を見る限り、10年以上続いているのだ。
それが今日の日付がついたメモになっただけなのである。

勝利宣言をさせて欲しい
自分は長い文章も書けるし、日記を書くという丁寧な生活も遅れる。そしてそれはこれからも続く。
夏休みの絵日記が提出できなかったのは、それが「エモまとめ」だったせいだし、三日坊主は立派な青年になった。

ある人は「それってただのTwitterの下書きじゃんw」というかもしれない。ただ今は自信をもって言える。

「これは間違いなく日記だ。僕は日記が書ける。君は?」


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