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私が父の骨を拾わない理由~DVと介護を考える

2021年12月7日、10:55。父が死にました。昨日です。
死なれたてほやほやの私の気持ちを備忘録も兼ねて記録しようと思う。


普段はデスクワークならスマホを傍らに置いている私が、
なぜか昨日に限ってデスクではない場所で作業していた。

お昼休みを挟んで午後の業務に入ろうとしたところ、
着信が入っていることに気づいた。母からだった。
仕事中であることはわかっているはずなのに、2件も着信。

「何かあったか?」と思い、LINEを開くと
『お父さんいっちゃったよ~。10:55。
●●病院。今から【私の弟で長男】が来る。』と。

いっちゃった?どこへ?病院?いや、病院に行った時刻は知らせないよな?
やっぱり死んだか?

確かめようと母に入電するが出ない。バタバタしてるな。

少し経って母から折り返し。

「ねえ、死んだの?」「うん、そうよ」
「え~~~~マジか!なにやってんの?」

そんな会話をしたと思う。

夜、落ち着いてから母に状況を聞くと、
つい2~3日前に要介護4の認定が下りたばかりで、
これから色々なサービスを使おうと思っていた矢先とのこと。

先週母と話した時に、父は頭はしっかりしているが体が非常に動かしにくい状態と知った。それが5月から続いていて、実質介護だと。

コミュ障でほぼかわいがられた記憶もなく、母や私に手をあげて酒ばかり飲んでいる父の姿しか思い出せない。ビビりだから体を鍛えることで心を保っていたような父。今でこそ冷静に考えられるけれど、昔は「くそじじい。早く死んでほしい。法が許すなら殺したい。死ぬまで許さない。」と思っていた。

父は実際死んだ。死ぬまで許さなかったから、死んだら許せるのか考えてみた。許せない。死んでも許さないという方が正解だった。

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まず、介護の話をする。

父は心臓が悪かったそうだ。同時に皮膚炎を併発していた。「薬を塗る・飲む」「掻かない」「食生活の改善」をすれば、格段に良くなる。
しかし「掻きむしる」「好きなものだけだ食べる」をしているのだから、治るわけはない。

母が注意すると怒る。「うるせぇ!」と。

この皮膚炎が治らないと開胸手術ができないと言われていた。皮膚の菌が胸から内臓に入り込むリスクがあるからだそう。

だから手術ができずに5月から月日が過ぎて行った。

全身血だらけで皮膚が引きつって歩けなくなって、家の中で転ぶ父の介護を、母は父が死ぬ日まで半年以上していた。
私はコロナを理由に実家にここ何年も行ってないし、忙しさを理由に母と長く話すことも最近していなかったから、しっかり介護していたことを知ったのは本当に最近の事。頭はしっかりしていて憎まれ口ばかり言うけれど、実はトイレに間に合わないこともあるため、おむつをしていると聞いた時は「え~あのオヤジが素直におむつつけたの?!」とびっくりした。「漏らすなら付けといて」という一言で素直につけ、「いいねこれ。」と言っていたそう。まぁ漏らすよりもマシだと思ったんだろう。

そんな状況で介護認定を申請したのが今年の5月。けれど、当時は「治れば自立できるんでしょう?」と認定が下りなかった。

「治れば」ね。でも「直す努力をしない」勝手な父に振り回される母はとても困っていたけれど、素直すぎる母は「認定されなかった」事をそのまま受け止め、仕事もたまにしながら、ひどいことをしてきた父のおむつを替え、風呂に入れ、血の付いた布団や服を洗っていた。

そしてつい先日、その事実を知り、役所に再申請するように伝えた。待ってるだけじゃなにもならないから。

ケースワーカーさんにも以前の状況確認とは状況が変わっていることをお伝えし、それから要介護4認定が出るまでは一週間位。アッという間だった。

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さて、私の子供時代の話をする。

父は子供をかわいがる方法を知らなかった。
子供だけでなく、動物や植物にも同じだった。

私が3歳位の頃だろうか。
インコを飼っていて、ピーコという名前でたまに手に乗せたりして遊んでいた。あるとき父はピーコを片手で握り、そのまま握り殺した。私は泣いた。父は笑っていた。

小学校低学年の頃、私やきょうだいたちは犬を欲しがった。父は知り合いから、子犬をもらってきた。名前はペロ。女の子。
数年経って、私たちがあまり世話をしないということで、父が怒り私達が学校に行っている間に、ペロを捨ててきた。
数日後、ペロは自力で帰ってきた!だっこすると、肉球がべろべろにむけていた。ペロは乱暴する父になついていなかった。きっと父は自転車に乗り、引きずって連れ出したに違いない。

母は明るくて穏やかな人だ。
コミュ障父は、定期的に機嫌が悪くなりしゃべらなくなり、部屋に籠り卓上コンロで自炊をし始める。2週間ほどすると機嫌が戻る。機嫌が戻るきっかけは私は知らない。

そんな父に母はいつでも普段と関係なく接していたが、父は母を透明人間のように扱っていた。植物が好きでかなりの量の植木を庭に置いていた父は、毎日のように水やりをしていたが、優しい母が育てていた植物だけ綺麗に水やりを避けたり、引き抜いたりしていた。これは、自分の飼っている犬はかわいがるけど、他の犬は蹴るというのと同じだ。これは本当に植物が好きな人とは言えない。父が死んだ今、庭の植物全て近々処分する。

父は機嫌が悪いと、容赦なく子供の私に暴力をふるった。
私が生意気な事を言うと、容赦なく暴力をふるった。

平手で顔を殴る。いわゆるビンタ。あれは猪木ビンタに匹敵する。私が吹っ飛んだ。頬が腫れた。翌日学校に行くと、先生に声をかけられ「(先輩に)やられたのか?」と聞かれた。「いや、親です。」とあっけらかんと答えた。先生は「あ、そうか…」と言った。中2の頃。
蹴る。お腹、股間、お尻、背中など。唸り声をあげて苦しんでも止めなかった。父を止める母の顔に回し蹴り。母が出かけている間に私が体調を崩し嘔吐してしまったので、父に伝えると後頭部に回し蹴り。「気合が足りねぇからだ!!」と怒鳴られた。嘔吐物は片づけてくれてはいたが。これは小4のころ。
物を投げる。みかんやティッシュの箱が飛んできた。リモコンも飛んできたかな。
外に閉め出す。熱があり、雨が降っているのに、倉庫の、私の体も収まりきらないほどの「小さな軒下」に上着も着せずに立たせた。

こんなことが定期的にあって、父を殺したいと思っていた。母にそんな気持ちを伝えると「あんな人のために自分が捕まるなんてもったいないからやめなさい」と毎回止めらなだめられた。「離婚して欲しい」と言ったが、その後の生活や世間体の事を考えると、母にとっては離婚は得策ではなかったようだった。

20歳で私が実家を出て自立してからもたまに実家に帰ったが、その時もしゃべることも目を合わせることもほとんどなかった。

結婚後、
孫たちを連れて帰ると、興味深そうにはしていたが、扱い方がわからなかったようだ。扱われる側も「おじいちゃんよくわからない」と言っていた。

内孫に関しては、近所に住んでいるようでとてもかわいがっていたようだった。

そんな父親。
父親としても最低だが、夫としても最低であった。
子供の頃には何となく察していたこともあったが、
大人になってから母からその事実を聞かされたりして、改めて最低だなと思った。

そんな思いで、子供の頃から父親に対しては嫌悪感でいっぱいだった。お父さんと仲良くしている友達が羨ましかった。できるならそうしたかったが無理だった。

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そして父が介護状態であることを知り、本気で仕返しに行くことが頭をよぎった。これがあなたにされたことですと。そして、介護認定を進め、ホームに入ってもらおうと話を母に持ち掛けた。

その矢先、父は死んだ。昨日の朝普通に起きて暖かい飲み物を飲んで、最後に大きく息を吐いて座ったまま死んだそうだ。

誰も泣いていない。知らせたみんながとにかく驚いている。一番死ななそうなあの人が?と。

こんな人の遺体に手を合わせ、遺骨になるまで思い出話をし、安らかにと祈ることができるか。

今初めて私は泣きそうな気持ちになっている。
この気持ちはなんだろう。
最後までずるい死に方をし、どうしても消すことができない父への憎しみだろうか。

そういえば、父の妹が数年前に孤独死したとき、父の姉が言っていた事を思い出した。「母親(私の祖母)が、『誰の迷惑にもならないように』と早めに迎えに来たんだと思う。」と。祖母と私の母は仲が良かったので、きっと今回も祖母が介護を長引かせないように迎えに来たのかもしれない。



そんな父だから私は顔も見ないし、骨も拾わない。
最期まで腹が立つ父だから。

もし父におくる優しい言葉があるとしたら
    「お母さんより先に死んでくれてありがとう」







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