かたやぶり法律事務所~序章~

1 差押え
預金が引き出せない。今日は初任給が振り込まれる日。晴一はATMで預金を引き出す操作を3度、繰り返した。でも結果は同じ。
 預金が引き出せない。通帳を持たずに出た晴一は、ネットバンキングで取引明細を確認した。最新欄には「サシオサエ」の文字と、残高が0円である表示が。その直前の欄には「キュウヨ」とあり、20万円が振り込まれていた。残高は丁度20万円。0円だった預金口座に、給与が振り込まれて残高が20万円になった。でも、その直後に何者かが預金の全てを差し押さえた。一体誰が。取引明細の「サシオサエ」だけでは、差し押さえたのが誰なのかわからない。晴一は呆然とした様子で職場へ戻った。職場へ戻ると、
「お帰り。早かったじゃん。あれ?初任給もらったのに浮かない顔じゃん。」
と、同僚で恋人の真理子が声をかけた。晴一は、その浮かない顔で、給料を差し押えられて預金を引き出せなかったことをボソボソと説明した。すると真理子は、
「セイちゃん、私に内緒で借金してたんでしょ。」
と、言ってきた。半分、冗談のつもりだ。晴一は借金などしていない。そのことは真理子も大方知っている。しかし、差押えを受けるということは、何かしらの未払いがあることには違いない。そこで真理子は、
「落ち着いて考えよう。私たち、プロの法律家でしょ?」
と、柔らかい表情で言った。晴一と真理子は、弁護士1年生。司法修習を終えたばかり。保田杏子という弁護士が経営する「あんず法律事務所」で真理子とともにイソ弁をしている。イソ弁とは、雇われ弁護士のこと。即独立も考えたが、法科大学院生のときにエクスターンシップで指導を受けた杏子に気に入られ、暫く世話になることとなった。杏子は、晴一の父雅也の元恋人だ。雅也とは司法修習の同期だった。杏子は、雅也から自分の息子が法科大学院に進学することになったことを告げられていたが、まさかエクスターンシップで指導することになるとは思いもよらなかった。そして、いざ指導してみると、雅也や杏子と考え方がよく似ていて意気投合し、スカウトするに至った。そんな経緯で、弁護士として最初の給料を昼休みに下ろそうとした晴一だったが、預金を差し押さえられていて下せなくなってしまった。
晴一は深呼吸をして、真理子の入れてくれたコーヒーを2~3口飲んで落ち着こうと努めた。その点、当事者でない真理子は落ち着き払って、
「特別送達は来ていないよね?」
と言った。特別送達とは、裁判所から送られてくる書類と言ってよい。原則、本人に直接渡すもので、受け取りを拒否できない。これによって、民事裁判を起こされたかどうかがわかる。司法試験に合格できるほどの者なら、特別送達が無視できないものだということは当然認識している。さすがにそんなものが来て放っておくほど晴一は無神経でない。これは単なる債務不履行ではない。となると、公権力の行使か。税務署、年金機構、国民年金、国民健康保険。落ち着こうと努めた晴一だったが、差押えの一件で頭がいっぱいになり、仕事が手に付かないでいた。見かねた真理子は晴一に早退することを勧めた。晴一は、ボス弁の杏子に体調が悪いと言って早退した。
晴一は帰宅後、自分の机の引き出しやプライベート書類を保管しておくトレーなんかを探してみた。すると、未開封の「重要書類」と書かれた封筒が出てきた。晴一が開封すると、中には「差押予告通知書」と書かれた赤紙が入っていた。送り主は東京都こだま市の納税課だった。
晴一は住民税を長期間滞納していた。地方公共団体が地方税の徴収権を行使できる期間は5年。これを過ぎると時効により徴収権が消滅する。徴収される側が援用(主張)しなくても無条件にだ。そこで地方公共団体は時効前に期限を定め、滞納者に納税を促す。それでも納付しない場合、期限から時効までの間に強制執行することがある。赤紙は、そのことを通知するものだった。晴一は、住民税の納付を期限まで放置したことにより、時効直前に強制執行されたのであった。
滞納額は、延滞金と合わせて丁度20万円だった。要するに、赤紙が執行されたとすると、初任給を全額、持っていかれたことになる。
「さすがは公権力による滞納処分。赤紙1枚で差押えか。」
と、晴一は呟いた。するとそのとき、真理子からSNSでメッセージが来た。晴一がアプリを開くと、
「何かわかった?」
とだけ表示された。晴一は、
「おそらく滞納処分らしい。」
と返信した。晴一たちが使っているSNSは、相手がメッセージを読んだかどうかがわかるようになっている。メッセージ欄に「既読」マークが付くと、相手が読んだとわかる。
真理子は、晴一のメッセージに対してすぐさま返信をすることはなかったが、晴一の見ている画面には「既読」マークが付いていた。真理子は晴一の返信したメッセージを読んだようだ。暫くして、真理子からメッセージが来た。
「詳しいことは帰ってから聞く」
というものだった。

2 姉 その1
晴一と真理子は同居している。ただ、二人きりで住んでいるのではない。晴一の異母姉、美菜子も同じ家に住んでおり、3人でルームシェアをしているような格好だ。美菜子は公営競技の1つである小型自動車競走の選手、いわゆるオートレーサーをしている。晴一が司法試験を受ける際の、最大の協力者であった。
晴一が差押えに関して六法全書を調べているうちに、美菜子が真理子よりも先に帰って来た。最終日最終レースを終えて。時計は18時を回った頃だった。
「あれっ?セイかマリちゃん居るの?」
帰るなり美菜子は、よく通る大きな声で言った。晴一は、その大声に少し驚きながら美菜子を出迎えて、
「早退してきた。表向きは体調不良で。」
と元気なく言った。美菜子は怪訝そうに晴一を見つめ、
「で、本当のところは?」
と、言い返した。晴一は、初任給の20万円を全て差し押さえられて仕事が手に付かず、原因調査のために帰って来たことを正直に説明した。そして20万円の滞納に対して処分をする旨の警告が書かれた赤紙を見せた。美菜子は平然と、
「何してんだか。どうして、そんなになるまで放っておいたの?私に相談してくれれば、20万ぐらい払ったのに。」
と言った。すると晴一は、
「いや、勉強と仕事に夢中で、本当に忘れてたんだ。」
と言った。美菜子は何となくそれが本心でないという心証を抱いたが、信じてやることにした。呆れた素振りを見せながら、20万円を財布から取り出し、晴一に手渡した。美菜子は年収5千万円以上稼ぐ一流レーサーだ。20万円ぐらい晴一にくれてやったところで痛くも痒くもない。晴一は、遠慮して受け取りを拒んだ。それでも美菜子は
「お小遣い。」
と言って半ば強引に握らせた。晴一は
「ありがとう、助かる。」
と言って素直に受け取った。
これでまるで何事もなかったかのように晴一は普段の生活に戻ることになった。そして美菜子は3人分の料理を作り始めた。美菜子は、レース開催中は、最長で6日間、最短でも4日間、選手宿舎に缶詰めにされる。レースの公正を期すため、外部との連絡を一切遮断し、外出も一切禁止という、まるで刑務所のような過酷な境遇を強いられる。レースで勝つことができれば、1日で10万円程度から時には1000万円もの賞金を手にすることもあるが、メンタルは相当タフでなければ務まらない。そんな疲労困憊の状況下、美菜子は料理を作ってくれる。しかし嫌々ではない。むしろ料理をすることが好きで、これがストレス解消にもなっている。レース場では料理をすることなどできない。食堂で、決められたメニューの中から選択権を行使して食事をするだけである。だから、家にいるときぐらいは、自分の好きなものを食べ、気心の知れた人たちと楽しく食事をしたい、という思いが美菜子にはある。美菜子が夕食を作っていると、真理子が帰って来た。19時を回った頃だ。真理子は美菜子の姿を見ると
「ミナちゃん、お帰り!今回は、どうだった?」
と聞いた。すると美菜子は
「マリちゃんお帰り。優勝戦には乗ったけど負けちゃった、8着に。」
と返した。オートレースは、1回のレースを8人で競う。8着ということは、ビリだったということだ。美菜子は、たとえ8着に負けても正直に、あっけらかんと言ってのける。そんなサバサバした性格だ。晴一と美菜子の間には、レースの話題はなかった。いつもは、何気ない姉弟の会話で話題に上がるのだが、それだけ晴一には余裕がなかった。
「京葉じゃあ、なかなか優勝させてもらえないよな」
と、晴一は何とかして話に付いていこうとした。美菜子は調子を合わせて
「いつかまた京葉で優勝してみせる」
と言った。美菜子の所属する京葉オートレース場は、選手の層が厚い。美菜子は養成所の成績は男子に混じってもトップクラスだった。そのことを評価されて京葉オートレース場所属となった。デビューして3年経つが、京葉オートレース場での優勝は2回しかない。全部で10回優勝しているのに。晴一は、今度は真理子に向かって
「真理子、例のことは、もう美菜子に話したから。」
と言った。真理子は、安心したように
「なら、秘密裏にする必要はないね」
と言った。すると美菜子が
「ん?差押えのこと?なんだ、マリちゃんも知ってたの?」
と言った。真理子は
「今日の昼のことだから」
とだけ言った。美菜子は
「お金のことなら心配しないで。ばら蒔くほどじゃないけど、持ってるから。」
と力強く言った。真理子は
「え?まさか、もう立て替えてあげたの?甘やかさないでいいのに。」
と冷ややかに言った。美菜子は苦笑した。どっちが姉なのだか、なんて思った。でも言葉には出さなかった。そんな会話をしている間に料理が出来上がった。美菜子は、オムライスを振る舞った。優勝戦で8着だったとは言え、準決勝を1着で勝ち上がり、それだけでも16万円ほどの賞金を得ていた。オートレースは8着でも賞金が出る。1着の20%ほどだ。優勝賞金が65万円だったので、最終日も13万円は稼いた。初日に8万円、2日目に10万円、手当金も含めて4日間で50万円は稼いできた。晴一に20万円ぐらい小遣いをやってもまだ30万円ほど余る。稼いだ賞金の一部を使ってレース場帰りに食材を買い込んできた。レース場の食堂にはシンプルなメニューばかりで、オムライスなど滅多に出ない。それでオムライスが食べたくなったということもあるが、それよりも、大好きな弟と、いずれ義妹になるであろう女性と、3人での団欒が、美菜子にとって至福の時でもあった。
夕食を済ませたところで、真理子が晴一に
「さてセイちゃん、始めようか」
と言った。真理子と晴一は、場所を移ろうとしたが、美菜子が止めた。好奇心旺盛な美菜子は、何かピンと来ていた。これから2人がしようとしていることを。これから2人は愛を確かめ合おうとしているのではない。美菜子も少し難しい話を聞いてみたかったのだ。美菜子が2人の法律話を聞きたいというので、晴一と真理子は、そのままダイニングで話を始めた。その内容は当然、差押えの話だ。
オムライスをご馳走になって、ワインを一杯引っかけながら晴一と真理子の法律談義が始まった。美菜子という観客を交えて。晴一と真理子の2人は、給料の振り込まれた口座の全額が差し押さえられたことに着目していた。
民事執行法には、給料は全部差し押さえてはならない旨の規定がある。そのことを2人は知っていた。そこで晴一は早退して、美菜子が帰ってくるまでの間に、地方税法と国税徴収法を調べていた。強制執行については、地方税法には、国税徴収法を準用する旨の規定しかなかった。そこで国税徴収法を調べたところ、やはり給料については、全額は差し押さえてはならない旨の規定があった。その規定を根拠に、差押え処分の取消しを求めようという結論に達した。
一方、国税徴収法には、預金債権は丸ごと差し押さえなければならないという規定もある。つまり、部分的な差押えはできない。差押をする側は、できるだけ多く回収すべく、預金の差押えをかける。しかし、それが、実質的に振り込まれた給料の全額を差し押さえて、それを全て未払い債権(納税額)に充当されることになってしまっている。
債務不履行をする者が悪い、税を滞納するものが悪い。その一方的な正義感とマジョリティーの教官が、強制執行する側の狡猾な手法を許容してしまっている。被疑者・被告人・受刑者なら、債務不履行者・滞納者なら、何をしても、どんな人権侵害をしても許される、というのは時代錯誤だ。今は、そんな時代ではない。晴一と真理子は、弁護士として、その人権無視の狡猾な手法に歯止めをかけなければならないと考えたのだ。
美菜子は目を丸くして聞いていた。晴一と美菜子は物心つく前に産みの母と別れ別れになり、継母に育てられた。2人とも決して継母との関係は悪くなかった。だが、美菜子は思春期にありがちな、やり場のない反抗心からか、継母と距離を置きたくなって、中学を卒業してすぐにプロスポーツの世界に入った。継母も弁護士だった。晴一も美菜子も、いずれにせよ弁護士の両親に育てられた。だから美菜子は、法律実務に関する話には免疫があった。いや、むしろ興味があった。さらに、美菜子の産みの母も弁護士。名は杏子。そう、あんず法律事務所の保田杏子が美菜子の母である。そのことは、美菜子も晴一も、そして真理子も知っている。晴一が法科大学院生だったときに伝えられた。最初は抵抗感を露わにしていた美菜子だったが、晴一のことを思って杏子に歩み寄り、今ではすっかり仲の良い親子だ。本来、弁護士である晴一と真理子には守秘義務があって、不用意に美菜子に事件のことは話せない。しかし晴一と真理子は美菜子の口の固さを信じて、杏子も公認のもと、時々事件の話をあえて美菜子の前でする。もっとも、今回に関しては他人様から依頼を受けた事案でないが。真理子は晴一に
「まずは処分が行われて確定した通知が来ないことにはね。」
と言った。晴一は
「明日、少なくとも口座を差し押さえたのが東京都こだま市だってことを銀行に確認しに行く。何なら、そのあと市と話をしてもいい。」
と答えた。すると真理子は
「セイちゃん独りでやるつもり?」
と聞いた。晴一は
「そのつもりだ。」
と答えた。晴一も真理子も弁護士として、他にも案件を抱えている。2人で、事務所の利益にならない自分の差押え事件に関わる訳にはいかないと晴一は思ったのだ。

3 産みの母
翌日、晴一は午前中に半休を取って、通帳を持って銀行へ行った。一旦ATMで記帳して、窓口へ向かった。口座相談窓口用の番号札を取り、数分待つと、晴一の番号が呼ばれた。窓口に問い合わせると、預金を差押えたのは、やはり東京都こだま市だった。口座名義人に連絡を請う旨伝えられた晴一は、まずは事務所に出勤した。
事務所に着いた晴一が連絡先を真理子に見せようとすると、杏子に呼ばれた。杏子は
「セイ、具合はどうなの?」
と、平たく言った。杏子も晴一のことを、真理子や美菜子に合わせて「セイ」と呼んでいる。晴一は
「はい、えー、何かのちょっとした菌だかウイルスだかにやられたようでして、でももう大丈夫です」
と、しどろもどろに答えた。すると杏子は
「嘘をつかなくても良いのよ。美菜子と真理子に話は聞いたから。親子揃って給料全額差押えとは、呆れるわ。」
と言った。晴一は絶句した。父の雅也も差押えを受けたことがあったのだ。杏子も、債務不履行・滞納に対する強制執行としての預金の差押えを問題視していた。杏子は、雅也が本人訴訟をして敗訴したことを伝えた。雅也と同じことをしては勝てないとも言った。そこで杏子は、杏子と真理子を代理人にすることを提案した。もちろん、弁護士費用は晴一が払うという約束で。出世払いで構わないと。
早速、法律事務委任契約を晴一と「弁護士法人あんず法律事務所」との間で締結した。杏子は、契約締結後すぐに、こだま市の徴税課に電話した。審査請求の申立てをする旨伝えると、相手方は自信満々に構わないと言ってきた。この手の訴訟で、行政側は負けた試しがない。何しろ「滞納者が悪、地方行政が善」という先入観の下、裁決や裁判が行われるからだ。
翌日、こだま市から処分通知書が届いた。晴一は、それを隅々まで読んだ。すると、最後に教示が記載されているのを見つけた。そこには、
「この処分に不服のある場合には、行政不服審査法の規定により、処分があったことを知った日から3か月以内に、こだま市長に対して審査請求をすることができる。」
と、書かれていた。晴一は、分厚い六法全書で地方税法の規定を調べた。地方税法には、審査請求をして裁決を経た後でなければ訴訟を提起できないという規定があった。
「不服申立て前置ってやつか。」
と、晴一は呟くように言った。地方行政のした滞納処分について争いたいときは、まずは裁判所ではなく、行政機関に対して、審査請求という不服申立てをしなければならず、いきなり訴訟は起こせないということだ。
その翌日に、晴一は通知書を事務所へ持っていった。杏子は黙って受け取ったかと思うと、
「あなたの姉と妹の力を借りなさい。」
と言ってきた。晴一は、その意味を理解できなかった。その理由を聞くと、
「いずれわかる。」
とだけ言った。杏子は、雅也の事件の書類を書庫の奥の方から取り出してきた。所々が歯抜けになっていた。杏子は
「これじゃ足りないわ。肝心なところが歯抜けになってる。セイ、紫桜里(しおり)さんの所へ行って、雅也の書類を借りてきて。連絡しておくから。」
と晴一に言った。紫桜里という名を聞いた途端、晴一の心拍数が上がった。晴一の産みの母親と同じだったからだ。
晴一は、いろいろなことで頭を一杯にしながら、「玉城(たまき)法律事務所」へ向かった。書類ならコピーを郵送してもらえばいいのに。これから会う人は、本当に自分の産みの母なのか。だとするならば、母である紫桜里も弁護士をしているのだろうか。晴一は産みの母のことを何ひとつ知らない。それもその筈。産みの母とは、晴一が物心つく前に別れ別れになっていたからだ。父雅也と育ての母である真由は、それについて触れることはなかった。雅也の子たちは全員、雅也・真由・美菜子・晴一・優(まさる)・美心(みむね)の6人家族の生活が体に染みついている。雅也は真由に気を使ってか、杏子や紫桜里の写真は封印して子供たちには見せなかった。だから晴一は、自分の戸籍謄本を見るまでは、紫桜里という女性の子だということを知らなかった。紫桜里は自分を捨てたのか。いろいろな思いが頭を駆け巡っている間に、目的地に着いた。
玉城法律事務所は、偶然にも晴一たちの住まいのある崎玉市のマンションの下階のテナント事務室スペースにあった。晴一が、将来こんな所に事務所を構えたいと思っている理想のロケーションだった。それより、こんな至近距離に生みの母親らしき人のいる法律事務所があったなんて、晴一は思いもよらなかった。マンションのテナントスペースに入ると、玉城法律事務所の表札を見つけた。晴一は入口の観音開きの扉を開けた。中は想像以上に広かった。個人事務所にしては。10坪前後あるように見えた。カウンター越しの机に、60歳前後の女性が座っており、弁護士バッジを付けた晴一を見ると、すぐに立ち上がって出迎えた。
「もしや、杏子さんの事務所の?」
と、紫桜里は言った。当然、紫桜里は成人した息子の顔を知らない。晴一は「はい」とだけ言って、名刺を渡した。そこには
「あんず法律事務所 弁護士 法理晴一」
と書いてあった。紫桜里は、それを見るなり顔色を変えたが、平静を装い、
「どうぞ」
とだけ言って、晴一を応接セットの所へ案内した。紫桜里は、どう言葉をかけてよいかわからなかった。それゆえ、まずは、とにかく事務的なやり取りだけは済ませようと、書類を晴一に渡した。書類はコピーされたもので、全て揃っていた。封筒の中には、紫桜里の名刺も入っていた。紫桜里は、玉城法律事務所の弁護士だった。相変わらず紫桜里は何も言えず黙っていた。斟酌した晴一は、自分から
「戸籍謄本を見ました。私の産みの母は玉城紫桜里さんという人です。父雅也と関係のある玉城紫桜里さんということは、あなたが私の、私の母なのですね?」
と切り出した。紫桜里は、目に涙を浮かべながら
「ごめんなさい。恨んでいるでしょ?今更どの面下げて母親よね?私の顔なんか、見たくなかったでしょう?」
と消えそうな小声で言った。晴一は動揺したが、平静を装い
「私は真由という女性に育てられました。その人が母親だと、ずっと信じていました。今でも私の母は真由だと思っています。だから、産みの母であるあなたとの距離は、すぐには埋まりません。しかし、戸籍謄本を見て事実を突きつけられたとき、いずれあなたとは向き合わなければならない時がくると思っていました。いつか時間のあるときに、若い頃の父の話でも聞かせてください。上司である杏子さんじゃ、聞きづらいので。」
と、穏やかに言った。紫桜里は何も言わずに涙を流していた。晴一は、
「事件が片付いたらまた来ます」
と言って立ち去った。
晴一は、少しは頭の中が軽くなったという表情をして、あんず法律事務所に戻った。晴一が、調達してきた書類を杏子に渡すと、真理子も呼ばれた。杏子は、紫桜里のことには全く触れず、晴一に3部コピーをとるように命じた。晴一がコピーを終えて持ってくると、原本は控えとして重要書類のファイルに収納され、1部は杏子が受け取り、1部は真理子が受け取った。残った1部は晴一が貰うことになった。杏子は
「セイ、真理子、明後日までに、これを読んで意見を纏めてきて。明後日の午後、会議ね。」
と言った。代理人は杏子と真理子なのに、準備書面作成に当事者の晴一も参加させようというのだ。
帰宅後、晴一と真理子のプレ会議が始まった。美菜子もギャラリーとして参加。杏子は、雅也の最高裁決定と関連書面を読んで意見を出せと言ってきた。弁護士の視点としては、雅也がどう主張して、相手方がどう反論し、裁判所がどう判断したか、である。2人が読み進めると、違和感が襲った。

4 父の裁判
雅也は、取消訴訟(処分の取消しの訴え)と、損害賠償請求訴訟を、別々に起こしていた。いずれの裁判も、給料振込当日に銀行口座の給料相当額を差し押さえた本件処分は、憲法第14条第1項および憲法第29条第1項に違反し、無効である、ということを前提にしたものだった。
無効なのだから、処分前の原状に復せ(された処分は取り消せ)、というのと、本来されない筈の処分をされて損害が生じたから賠償しろ、というのが請求の趣旨(結論)だった。相手方の答弁(反論)は、「本件処分は国税徴収法第63条に則った適法なものである」ということに終始していた。
雅也は先に、簡易裁判所に損害賠償請求訴訟を起こしていた。判決は請求棄却。裁判所は、処分は適法だとの一点張りで憲法判断を回避した。いわゆる司法消極主義(法律論だけで解決し、憲法判断を避けること)を採った。地方裁判所の控訴審も控訴棄却。高等裁判所も、上告審にもかかわらず憲法判断を回避して上告を棄却した。雅也は、一縷の望みに賭けて、憲法判断を仰ぐべく、最高裁判所に特別上告をしたが、憲法判断回避の常套手段である「例文判決」により、特別上告は棄却された。
例文判決とは、
「所論は、憲法違反を主張するが、その実質は事実誤認か単なる法令違反を主張するものであって、適法な上告理由に当たらない。」
という短いものだ。この場合、最高裁判所判事に憲法違反の主張は読まれていない。最高裁判所調査官という、一介の裁判官が、最高裁判所や行政にとって都合の悪い主張を揉み消しているだけだ。晴一と真理子は、あんず法律事務所に新人弁護士として入って、そのことを杏子に初めて教わった。
取消訴訟の方も同じだった。最高裁まで争うも一審を是認した二審判決を支持し、「例文判決」で上告を棄却したのだった。一審の地方裁判所から憲法判断を回避した。理由は無茶苦茶だった。差押え処分は次に続く換価処分の前段階で、一連の処分の一部に過ぎず、一連の処分である換価処分が済むと滞納処分の効力は消滅し、取消しを求める法的利益は失われるというものだった。結論として、処分取消しを請求する法的利益がないとして、請求は却下すると判決を出した。因みに、傍論で、処分の違法性と原状回復を訴えるなら、取消訴訟によるのではなく、「不当利得返還請求」によるべきと書かれていた。ここが、2人の抱いた違和感だった。差押通知書には
「この処分に不服のある場合には、行政不服審査法の規定により、処分があったことを知った日から3か月以内に、こだま市長に対して審査請求をすることができる。」
と教示が記載されていた。これは、当然、審査請求やこれに続く取消訴訟(処分の取消しの訴え)で処分が覆る可能性を示唆するものだ。その結果を待つことなく、「換価処分が済むと滞納処分の効力は消滅し、取消しを求める法的利益は失われる」というのは論理矛盾も甚だしい。これでは審査請求も取消訴訟も、する時点で意味をなさなくなる。結局は、裁判所や行政にとって都合の悪い主張を屁理屈で揉み消しているだけだ。そうなると、雅也裁判の地裁が言うように「不当利得返還請求」を仮に起こしたとしても、別の理屈で今度は「この手の訴訟は取消訴訟によるべき」と堂々巡りになるに決まっている。だから雅也は不当利得返還請求訴訟を起こさなかったのだろうと晴一は思った。
晴一と真理子は悔しがった。何十年も前に、晴一の父が起こした訴訟なのに。司法に幻滅しかけた。最高裁判所は、違憲審査権を常に行使してくれる理想の機関だと思っていたのに、憲法違反の主張を揉み消す判決を出すのだと。法科大学院で学んだ憲法学は何だったのだ。司法試験の憲法の問題は、何のために解いたのだ。晴一たちは、司法に携わるのが嫌になりかけた。
大学の法学部や、法科大学院で憲法訴訟を学ぶ際には、「違憲審査基準」なるものが必ず出てくる。要するに、法令や行政処分が憲法の規定に適合しているか、違反しているかの境界線のことだ。境界線の手前なら合憲、境界線を越えると違憲という基準だ。
その「違憲審査基準」をもとに、ケースメソッドで、事案に関する法令や行政処分が合憲か違憲かを、ゼミでは議論し、試験では論じて解答する。
裁判官だって、そうして憲法を学んできた筈なのに。いざ、司法試験に合格して裁判官になると、憲法訴訟は厄介ものなのか。
暗い顔をしていた2人に、美菜子が質問を投げかけた。
「私にも解るように説明して」
と。すると晴一は、憲法違反について説明を始めた。美菜子は中学を卒業してすぐに、モーターボート競走の選手養成所に入所し、モーターボート競走の選手となった。その後、紆余曲折を経て現在のオートレーサーになった。美菜子・晴一の姉弟は、腹違いで、11ヶ月の歳の差である。美菜子が4月生まれ、晴一が翌年の3月生まれ。そう、姉弟だが同級生だった。中学時代の成績は美菜子が圧倒的に上で、常にトップクラス。晴一は、下から数えた方が早いほどだった。美菜子は、特に社会科の公民分野は滅法得意で、常に100点に近い点数を取っていた。だから、憲法違反がどういうことなのかは、概ね解っている。しかし、せっかく晴一がそこから話し始めてくれたのだから、解っていても、熱心に聞いた。晴一も成長したものだと感心しながら。

晴一は、まず、憲法が「日本の国家機関ひいては地方行政も含めた全ての公権力が守るべきルール」だと説明し始めた。それは、公権力が国民の人権をみだりに侵害してはならないことも意味する。つまり、憲法違反とは、日本の公権力が、そのルールを破ったということだ。
雅也の主張した憲法第14条第1項に違反したというのは、日本の公権力が、国民を平等に扱わなければならないという規定に違反し、差別的な取り扱いをした、ということ。憲法第29条第1項に違反したというのは、日本の公権力が国民の財産権を不当に侵害した、ということ。そんなふうに説明した。

美菜子は、晴一の話を聞いて、考えさせられた。どちらが正義なのか。父は納税の義務を果たさなかった。晴一もそうだ。それでも、なぜ争うのか。そこで美菜子は、
「憲法違反については解った。でも、その公権力っていうのが滞納者の財産を差し押さえること自体が悪いことではないでしょ?だって、税金を納めてないんだから。罰として強制的に徴収するのは、いけないことなの?」
と晴一に質問した。晴一は、
「確かに、滞納者に対して強制執行することは、法律で認められている。だから、法律違反ではないんだ。しかし、その法律に不備があるんだ。」
と答えた。当然、どんな不備?と美菜子は聞いてきた。晴一は、国税徴収法の矛盾する2つの規定を話した。

国税徴収法第76条第2項は、「給料等に基づき支払いを受けた金銭」について、政令で定める10万円まで差し押さえてはならないと規定している。つまり、10万円は残してあげなければならない。一方で、国税徴収法第63条は、「債権を差し押えるときは、その全額を差し押えなければならない」と規定している。銀行口座は、その名義人が、銀行に対して、自分の預金を返してもらう「債権」である。そのことが、銀行口座を全額差し押さえる法的根拠となってしまっている。
 地方行政としては、国税徴収法第63条の規定に基づき、適法に滞納処分を行なったことになる。給料を差し押さえるか、銀行口座を差し押さえるかは、地方行政に裁量がある。どちらを選択しても法律の規定に違反さえしなければ「適法」な行政処分となる。そこが厄介であり、晴一たちが「不備」と考える部分だ。

銀行口座に振り込まれた給料相当額は、実質的には「給料等に基づき支払いを受けた金銭」と同じである。給料として銀行口座に振り込まれた金額と同額を「預金債権」として全額差し押さえることは、実質的に給料全額を差し押さえていることと同じだ。
国税徴収法第76条第2項の規定は、まだ給料を手渡しするのが一般的であった頃の規定だ。立法当時、手渡しをされた給料は自宅に持ち帰り、必要な生活費を保存した上で、余剰金を銀行に預金するという生活様式であった。だから、余剰金たる預金は「債権」として全額差し押さえても正当化される根拠となった。しかし、現在では、給料は銀行振込が主流である。振り込まれた金額から家賃・光熱費等は自動的に引き落とされ、生活費は自ら引き出すという、立法当時とは逆の所作をしなければならない。預金を差し押さえられてからでは、自動引き落としも不可能となり、生活費も引き出すことができない。今や、預金債権の全額を差し押さえることを正当化できなくなりつつある。

雅也は、そんなふうに訴状で主張していた。晴一や真理子も同感だった。美菜子も漸く内容が飲み込めた。晴一と真理子は、弁護士として、どうしたら裁判所を動かせるのか悩んだ。そんなとき、晴一は、杏子の言葉を思い出した。
「あなたの姉と妹の力を借りなさい」

5 あんず法律事務所の作戦
美菜子はオートレーサー。妹の美心(みむね)はアイドルをしている。マスコミには、いくらでも顔が利く。SNS発信の影響力もある。マスコミや大衆を味方に付けることによって、審査庁や裁判所に対して事案に真摯に向き合わせることができる。誰にも知られることのない、いわゆる密室状態での審理だと、審査庁や裁判所は、結論ありきの、こじつけ的で中身の伴わない不合理な判断をしかねない。マスコミによって人々の知るところとなると、辻褄の合わない裁決や判決を出す訳にはいかなくなる。杏子の狙いは、そこにあったのだ。
晴一は、美菜子と美心に事情を話して協力を請うと、2人とも快諾した。美菜子には、顔の知れたスポーツ紙の記者に社会部の記者を紹介してもらえる可能性がある。

翌日、さっそく美菜子の伝で、一般紙「東中(とうちゅう)新聞」の記者にも話が伝わり、記事にしてもらうことができた。美心の方は
「ウチのおにぃが汗水流して稼いだ初任給を全部、差押えで持っていかれた。それって権力の濫用じゃね?」
と発信したら、非難もあったが、それを上回る何万もの共感や拡散を得た。これによって、差押えを受けたのがアイドル法理美心の兄だということが知れ渡った。新聞記事にも実名で報道することを晴一は承諾し、法理晴一という名前も知れ渡った。晴一が弁護士であることも、所属する法律事務所も、世間の知るところとなった。
新聞でもSNSでも大騒ぎになったことから、テレビでも取り上げられた。公権力に物申す東中新聞に乗じて、同じく物申すテレビの「あかつきテレビ」が市長を直撃した。レポーターが
「給料全額没収する処分をして平気なんですか?人として何とも思わないんですか?」
と市長に質問を投げかけても、市長は完全黙秘を貫いた。

 テレビの視聴者の中で、晴一と同じような目に遭ったという者が5人ほど、あんず法律事務所の住所を調べて、我もとばかりに訴訟の依頼に訪れた。杏子は、訴額が140万円を超えない程度に、晴一とほぼ同条件の3人を共同訴訟人にした。残った2人は、4人分の訴訟の結果を待って、別訴で引き受けることにした。
杏子たちの思惑どおりに、事は進んでいった。あとは論法だ。杏子は、雅也のした主張が最も的を射ていると感じていた。雅也の悔しい思いを晴らしたいと思った。司法は、時として非情である。公正でも公平でもない。国、行政にとって都合の悪いことは、ひた隠しにして揉み消す。そんなことを平気でする。なぜならば、最高裁判所の裁判官を選ぶのは、内閣だから。それに、裁判官には訟務検事などという法務省出向の道も設えられている。訟務検事とは、国が被告になった事件の「国側の代理人」のことだ。裁判官のエリートが国の味方をするのだから、他の裁判官が追従しない訳に行かない。行政にとって都合の悪い判決など書こうものなら、忽ち出世街道から外される。出世街道に乗りたければ、行政に阿る判決を出すしかない。それがこの国の司法だ。その厚い壁を破ることは容易ではない。しかし、裁判官に、わずかでも良心があるならば、全うな法解釈をする姿勢があるならば、国民が納得する判決を出せる筈だ。それには、まず、訴状に正面から向き合わせなければならない。

そんな、マスコミが大騒ぎしてくれた日の午後、あんず法律事務所では、訴訟進行についての会議が始まった。晴一は、一昨日の夜に気付いたことを杏子に伝えた。姉と妹を味方につけてマスコミや大衆の協力を得たことを。杏子は、
「よく気付いたね。雅也には、そんな味方がいなかったけど、セイには強力な味方がいる。これが雅也の裁判とセイの裁判の決定的な相違になるでしょう。」
と晴一を誉めた。論法については、雅也の主張を踏襲しようということになった。論法として的を射ているし、息子が父の無念を晴らすチャンスでもあるし。杏子、真理子、そして晴一自身が論法を組み立てるとしても、同じようなものになったと意見が纏まったし。ただ、訴訟を1つ追加した。無茶苦茶論法の地裁判決傍論の指摘していた「不当利得返還請求訴訟」を。不当利得返還請求は、損害賠償請求の予備的請求にすることとし、それと別に取消訴訟を起こすことになった。
会議は瞬く間に終わり、主任代理人となった真理子が早速、最初の関門である「審査請求書」の作成にかかった。訴状と同じように白紙から作り上げて行かなければならなかった雅也の頃とは違い、殆どの自治体が審査請求書の様式を作成していた。こだま市のホームページからも、審査請求書のファイルをダウンロードできるようになっていた。そして、ダウンロードしたファイルを端末で直接入力するか、印刷して手書きするか、いずれにせよ空欄を埋める形式になっていた。提出は、書面を郵送しなければならなかった。真理子は、パソコン端末で審査請求書を作成し、それを印刷して押印し、東京都こだま市に郵送した。
審査請求は、当事者が申し立てない限り、口頭意見陳述は開かれない。当事者の申立てがなく、口頭意見陳述が開かれなければ、審理は書面だけで行われる。杏子は、こだま市の審理員に口頭意見陳述の機会を与えるよう申請したが、必要ないと棄却された。結局、審理は密室で行われることとなった。
審査請求に対する裁決は、審査請求書提出後3ヶ月以内に出される。行政事件訴訟法に、審査請求後3ヶ月を経過しても裁決がないときには、裁決を待たずに訴えを提起してよいという規定があるからだ。それでも、審理には2ヶ月前後、早くても1ヶ月はかかる。その間に、真理子は損害賠償請求訴訟の訴状の作成にかかった。請求額は、給料相当額と慰謝料を合わせた30万円。ほか3人も同額で計120万円。訴額が140万円以下なので、事物管轄は簡易裁判所。東京都こだま市を被告とすると、土地管轄は南東京簡易裁判所だった。杏子も真理子も、南東京簡裁には若くて頭の柔軟な女性裁判官がいることを認識していた。共同訴訟人と訴額を増やして東京地裁立王子支部にするより、南東京簡裁に提訴する方が勝訴の可能性が高いと読んだのだった。
真理子は、南東京簡易裁判所に訴状を郵送で提出しようとした。ところが、晴一が待ったをかけた。晴一が自分で直接、裁判所に提出しに行くと言い出した。晴一は、杏子の許しを得て、午後に、南東京簡易裁判所へ向かった。
晴一が南東京簡易裁判所に着いたのは午後4時半だった。閉庁30分前である。閉庁間際なので、仮に書類に不備があったとしても、晴一は、そのまま持ち帰るつもりだった。目的は、もう1つあった。いや、もう1つの目的のために、晴一は南東京簡易裁判へ自ら赴いたのだ。

6 未歩という女性
訴状を直接提出した晴一は、裁判所を出て、最寄りの町原田駅へ向かった。滞納処分を受けて2ヶ月あまり。3月も下旬だが、陽が傾いてくるとまだ寒い。冷えた手をさすりながら、晴一は未歩という人物にSNSでメッセージを送った。近くに来たから会わないかと。午後5時過ぎ、未歩からOKの返事が来た。すると晴一は、町原田駅ビル内の「マイエッグ」というオムライスが評判の店にいるとSNSメッセージを送った。
未歩は定時の5時15分に仕事を終え、町原田駅ビルのマイエッグへ向かった。5時半に到着した未歩は、晴一を見つけると、優しく手を振った。晴一は、それに気付くと、手を振り返した。未歩は晴一の正面に座った。2人は名物のオムライスとボトルワインを注文した。注文が済んですぐに未歩は
「南(みなみ)簡裁の事件で代理人?」
と聞いた。晴一は
「いや、代理人は事務所のボスと俺の修習同期だ。こだま市を相手取った損賠でね。」
と答えた。すると未歩は
「それで、私に担当しろと?」
と言った。晴一は
「そんな、国の司法権に介入するようなことを一介の弁護士ごときが言えるわけないだろう?」
と笑いながら答えた。しかし、損賠訴訟が憲法訴訟であることは伝えた。マスコミに取り上げてもらって、記者や大衆が傍聴席を満席にするであろうことも。晴一の目的は、それだった。ただ、相手は現役の裁判官。喋りすぎてはならないことは承知していた。
だから、訴訟の話は短く切り上げて、2人は昔話に花を咲かせた。その間にオムライスとワインが来た。晴一と未歩は、オムライスを食べ、ワインを飲みながら会話を楽しんだ。2人は早隈田大学法学部の同期。未歩は早期卒業対象者で、大学を3年で卒業し、早隈田大学法科大学院の既習コースへ進学した。大学入学後5年で法科大学院を修了し、司法試験に当然のように一発合格した超エリートだった。司法試験や司法修習でも成績優秀だったため、裁判官に任官された。
一方の晴一は、早隈田大学には現役で合格したものの、大学での成績は下の方。大学4年次には、卒業できるかどうかの瀬戸際で、法科大学院進学どころではなかった。更に言うと、3年次と4年上期で卒業見込の単位数を満たしていなかったため、進学どころか、就職活動すら満足にできなかった。やっとの思いで早隈田大学を卒業した晴一だったが、卒業後の進路はフリーター。大学在学中に始めた学習塾講師のアルバイトを大学卒業後も1年続けながら、法科大学院進学に向けての勉強と就職活動の両方をしていた。晴一は、大卒1年目でも早隈田大学の法科大学院に進学することができず、バイト仲間の紹介で、ビルメンテナンスの会社に就職した。それでも法曹への道を諦められなかった晴一は、会社を1年で退職。姉美菜子の世話になりながら2年間猛勉強し、早隈田大学法科大学院既修コースに漸く合格できた。晴一は、会社員時代の1年分の住民税を納付し忘れたのだった。未歩は、勿論そのことを知らない。
ただ、未歩が先に大学を卒業した後も、2人はSNSを通じて交流は続けていた。晴一が真理子と良い仲になってからは、新年の挨拶程度しか連絡は取り合っていなかった。真理子は未歩の存在を知っている。真理子が晴一に追及したこともあった。晴一は、未歩とは男女の関係ではないことを強調し、それでも利用価値のある人脈だと真理子を説得し、交流することの了承を得ている。
晴一と未歩は、大学のサークルで知り合った。司法試験研究会だった。未歩は東京国立大学の受験に失敗し、滑り止めだった早隈田大学に入学した。東国大受験失敗の悔しさを引きずっていて、早隈田大学在学中は、東国大出身者に負けまいと、笑顔を殆ど見せずに法律の勉強に励んだ。晴一以外の男子学生は、鬼気迫る形相の未歩を敬遠していた。晴一は、恐いもの知らずなのか、マゾなのか、クールすぎて愛想の無い未歩に惹かれていた。未歩への倍率の低さが幸いしてか、晴一は未歩と、わりとすんなり仲良くなることができた。晴一は、なかなか笑顔を見せない未歩を何とか笑わせてやろうと、冗談を言ったり滑稽に振る舞ったりして二枚目を演じた。すると次第に未歩は、晴一にだけは笑顔を見せるようになっていた。
そんな、晴一が未歩を必死に笑わせようとしていた、他愛ない昔話を2人は1時間もし続けた。ワインを飲みながら。少し酔った未歩は、晴一を見つめて言った。
「あの時は、すごく楽しかった」
と。晴一を見つめる未歩の眼差しは、愛する男を見るそれのようだった。晴一は、どうしていいかわからず、
「ずいぶんと酔ったみたいだな。明日の仕事に障るといけない。そろそろ帰ろう。事件が片付いたら、また飲もう。」
と言って、半ば帰りたがらない未歩を宥めて、会計を済ませて店を出た。
晴一は、未歩を軽く抱き寄せてすぐに解放した。それで少し落着いた未歩は、晴一に優しく手を振って、官舎へ帰っていった。晴一は、未歩の姿が見えなくなるまで見届け、町原田駅の改札へ向かった。
数日後、未歩は、晴一が原告となって起こした損害賠償請および不当利得返還求訴訟の訴状を目にする。若手裁判官である未歩が訴状審査をした。訴状に不備があると、民事訴訟法に則って、当事者に補正を命じることになる。晴一の事件の訴状に不備はなく、審査はパスした。書記官決裁を経て「○○年(ハ)第7号」と事件記録符号が付けられたが、係属は1係となった。未歩は2係。1係は所長の四ッ木という書記官上がりの裁判官が担当する。未歩は、四ッ木のデスクへ行き、
「四ッ木判事、ハの7号事件のことなんですが、あれって、今マスコミが騒いでいる事件ですね。記者や傍聴人が席を埋め尽くすほど来るようですよ。憲法訴訟らしいですし、私が代わりましょうか?」
と言うと、四ッ木は
「国賠だろ?誰が担当しても棄却だ棄却。憲法判断など、するまでもなく」
と返した。国賠とは、国家賠償法に基づく損害賠償請求訴訟のこと。要するに公権力を相手取った損害賠償請求訴訟のことだ。大半の裁判官は、このように結論ありきの判断をする。そしたら未歩は、
「予め憲法訴訟と知れ渡っている事件で憲法判断を避けたら、マスコミがうるさいですよ。控訴審の地裁にも迷惑かけますし。私なら、マスコミを黙らせるほどの憲法判断をしますよ。」
と言った。四ッ木は未歩の顔をじっと見て頷いた。四ッ木は元書記官、未歩はエリート街道まっしぐらで特例判事補へのステップとしての簡裁判事。四ッ木としては面倒な事件の処理は未歩に押し付けたい腹だった。
真理子が審査請求書を郵送した2ヶ月後、桜が散る頃に、事務所に裁決書が送られてきた。裁決の内容は「棄却」だった。あんず法律事務所の弁護士たちにとっては、想定内だった。審査請求は密室審理だったからだ。
ほぼ同じタイミングで、簡裁の損賠訴訟の答弁書も届いた。裁決書と同じ内容だった。審査請求の審理員も訴訟の被告代理人も、どちらも市側の人間だ。同じ内容になるのは当然だ。しかし、そうなると審査請求は客観性に欠ける。やる意味があるのだろうか。そう晴一は思った。どんなに客観性に欠けるものでも、審査請求は訴訟過程において第1審の前段階、まるで第0審のような役割を果たす。1審の判事に予断を与えてしまう。なんか不公平だと晴一は思った。ただ、唯一の朗報は、簡裁の損賠事件の担当が2係になっていたことだった。晴一は、しめしめと思った。
損害賠償請求訴訟の答弁書が届いた翌日、さっそく南東京簡易裁判所2係の書記官から電話が来た。電話には真理子が出た。まず、答弁書が届いたかどうかの確認をされた。書記官は、届いているとがわかると、第1回口頭弁論期日の候補日を提案した。第1回口頭弁論期日は4月20日に決まった。時間は午後1時。
さっそく晴一は美心に知らせた。そして、美菜子に紹介してもらった東中新聞の待月逸子という女性記者とも連絡をとった。待月からは、当日取材に行くと返事を貰った。美心は、あまり沢山の傍聴人が押し掛けないようにするため、ファンクラブのVIP会員にだけ4月19日に公表した。当然、美心自身も傍聴に訪れるつもりで、マネージャーに4月20日の午後はスケジュールを開けてもらった。あいにく美菜子は当日、レース開催日だったため、レースへ出走することにした。

7 市役所爆発炎上
桜が満開の頃。あたりは陽が暮れてすっかり暗くなっていた。閉庁後の市役所。あらゆる照明が消え、警備員の巡回も終わり、庁舎は静まり返っていた。警備員の動きすら落ち着いた矢先の午前1時、事件は起こった。濃紺の空中を、2機のドローンが市役に目掛けて飛行している。2機の間隔は10メートルほど。
1機目が市役所4階納税課書庫の窓に直撃するや、すぐに爆発した。窓は破壊され、それが大きな開口部となった。そこへ2機目が入り込み、奥の壁に激突するや、すぐに爆発した。2機目には、2種類の爆薬が仕込まれていた。1種類目は、酸化性固体の火薬。2種類目は引火性液体だった。壁に激突した衝撃で1種類目の火薬が爆薬し、2種類目の液体に引火し、書庫は炎上した。濃紺だった市役所の庁舎の一部だけがオレンジ色と灰色に染まった。2機目の爆発炎上後の火災報知器作動し、スプリンクラーも作動した。炎は激しく、警備員による一次消火もできず、消防車が次々と駆け付ける事態となった。消防の消火活動により、庁舎の全焼は免れた。しかし書庫内の書類は、ほぼ全て焼損し、ずぶ濡れになっていた。
2機目の爆発直後、市役所付近の道路に停車中だった黒のワンボックスカーが走り去っていったが、時間帯もあって目撃者は出なかった。付近の防犯カメラの映像を基に捜査が開始されたが、容易に被疑者を割り出すことはできなかった。
当然、そのことはニュースになり巷を騒がせた。晴一らにも捜査の目が向けられたが、晴一やその関係者たちの嫌疑は晴れた。いくら滞納処分をした地方行政が憎くても、弁護士の晴一がそこまでする筈がない。晴一たちは怪訝そうな表情をしていた。だが美心ただ1人、捜査の目が遠ざかった途端、にやりとした表情をしていた。

8 ナイトメア
4月19日の夜、裁判前夜。晴一は寝つけなかった。親父と同じ轍を踏むかもしれない。それでは親父に合わせる顔がない。いや、滞納処分の違法性・違憲性を訴える訴訟なんて、負けて然るべしだ。気にすることはない。そう考えようとしても眠れなかった。しかたなく、こっそりと部屋を抜け出し、冷蔵庫から白ワインを出して、何杯か飲んだ。酔いが回ってきて思考回路が切断されるのかと思いきや、思考回路は生きている。飲んでも眠れない。そんなとき、雅也の言葉を思い出した。

「眠れなくても、目を閉じて何も考えなければ、半分は眠っているのと同じだ。心配事や嫌なことを考えているから眠れないんだ。頭から離れないこととは別の何かを、たとえば楽しいこと、心地の良いことなんかを考えて目を閉じていれば、眠ったのと同じ効果が得られる。そして、いずれ眠ることができる。」

晴一は、自分がオートレーサーになっていたら、どうだっただろう、なんてことを考えて目を閉じてみた。美菜子のように活躍できただろうか。少なくとも、弟の優よりは活躍できただろう。弟の優(まさる)は美菜子の背を追ってオートレーサーとしてデビューしたばかり。姉同様に期待されていたが、姉ほどの活躍はできていない。優よりは活躍していたさ、きっと。そう考えると、何だか少し落ち着いてきた。
落ち着いてきた筈なのに。やはり訴訟のことが頭から離れないようだ。ふとスマートフォンの日付を見ると、5月20日になっていた。自宅の呼鈴が鳴って、特別送達が届いた。封を開けると、中には判決書が入っていた。晴一は恐る恐る読んだ。

主文
原告の請求を却下する。
訴訟費用は原告の負担とする。

理由
換価代金の交付を徴税吏員において受けたときは、その限度において、滞納者から差押えに係る税を徴収したものとみなされ、滞納処分手続はその目的を達成したものとして終了し、債権差押処分の効力も消滅するものと解される。
仮に債権差押処分や債権の取立行為に憲法違反や地方税法、国税徴収法に違反する行為があったとしても、徴税吏員が取立権を行使する以前に差押処分の手続の続行の停止を求めて未然に債権の取立てがされることを防止する手段はあるものの、一たび取立権が行使されて配当手続が終了し、滞納処分がその目的を達成して終了した以上は、もはや債権差押処分の取消し等を求める利益はなく、滞納者においては、上記違憲又は違法事由を主張して、徴税吏員の所属する公共団体を被告として不当利得返還請求訴訟や国家賠償請求訴訟等を提起することによって損害を回復するほかないものと解される。
そうすると、滞納処分手続が主張している以上、本件差押処分の取消しを求める訴えを提起して回復すべき法律上の利益が存すると解すべき事情は存しない。
よって、本件訴えは不適法であり、かつ、その不備を補正することができないというべきであるから、口頭弁論を経ないで訴えを却下することとし、主文のとおり判決する。

裁判官
高樹未歩

そんな、俺はまだ取消訴訟は起こしていないぞ。それに何故その裁判官が未歩なのだ。顔中汗まみれだ。顔を洗ってこよう。晴一は洗面所へ行き、顔を洗って鏡を見た。すると、そこに映っているのは、雅也の顔だった。晴一はギョッとした。親父が帰ってきたのか。行方不明の親父が。その雅也が何か言葉をかけてきた。

「晴一は仲間がたくさんいて良いな。」

晴一は、その場に倒れ込んだ。気を失ったようだ。

目を覚ますと、太陽が上ったばかりの明け方だった。晴一は日付を確認した。4月20日だった。なんだ夢か。親父、変な悪戯は勘弁してくれ。そう晴一は思った。

9 第1ラウンド~第1審~
4月20日。あんず法律事務所は東京の赤十子区にある。南東京簡易裁判所へ行くには、電車だけでも1時間ほどかかる。晴一、真理子、杏子の3人は、午前10時に事務所を出発した。予め裁判所には、原告関係者が4人行くと伝えてある。当事者は尋問でもない限り出廷の必要がないので、晴一を除く共同訴訟人の3人は裁判所には行かないことになっている。もう1人の関係者は美心だ。東京都港北区に住んでいる美心は、ウィッグと伊達眼鏡とサージカルマスクで変装し、3人と副都心駅で落ち合った。真理子は美心と何度か会ったことがあったが、美心を見るなり
「さすが現役アイドル。変装してても顔ちっちゃいしカワイイ」
と言った。美心は、人差し指を立てて口に当て「シー(静かに)」のポーズをとった。真理子は申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせて縦にして「ゴメン」のポーズをした。合流した4人は、小田湘電鉄で町原田へ向かった。駅に11時15分に到着すると、早めの昼食を摂った。4人は12時半に店を出て、南東京簡易へ向かった。12時45分に裁判所へ着くと、法廷が2つしかない小さな裁判所に人だかりができていた。裁判所事務官らが対応に追われていた。傍聴希望者が整理券を得るために列を作り始めた。その列を横目に、晴一たち4人は、事務官に身分を明かして裁判所内へ入った。途中、美心のファンに
「あの眼鏡の小さい子、ミムリンじゃね?」
と気付かれたが、美心は晴一たちに囲まれて、眼鏡とマスクを外しながら速やかに裁判所へ入って行った。
美心は、ファンクラブのVIP会員にだけ公表したが、どこからか情報が漏れ、東京周辺に住むファンが押し掛ける事態になってしまった。その数200人。
傍聴席は50席。うち報道関係者席は10席。残りの40席を200人で抽選する。関係者は当事者席に全員入る前提で、傍聴席には座らない。傍聴席の倍率は5倍。傍聴人にとっては大した事件ではない筈なのに。美心は晴一に
「ゴメン、こんなに人が来ちゃって。」
と謝った。晴一は
「何を言ってるんだよ、美心が呼んでくれなかったら、傍聴人は誰も来なかった筈だ。感謝してるよ。」
と言った。
午後12時50分、関係者の入廷が許可された。入廷するとすぐに書記官が
「○○年(ハ)第7号の当事者の方、中へどうぞ」
と言って案内した。
午後12時55分には、先に報道関係者が傍聴席に陣取り、続いて傍聴券を獲得した40人の傍聴人が続々と入廷した。抽選に外れた160人は裁判所の外で待ち惚け。美心の出待ちをするのだった。
そして午後1時。裁判官が入廷。書記官が
「ご起立ください」
と言い、全員が立ち上がった。裁判官が一礼し、続いて、他の全員が一礼をして、全員が着席した。裁判官は、やはり未歩だった。限りなく裁判官に近い席に座った晴一だが、何故か未歩が遠く感じた。未歩は裁判官に徹している。晴一も一当事者に徹し、あくまで未歩を一裁判官として見ることにした。未歩は
「開廷します」
と淡々と言った。そして続けて
「原告代理人は提出済みの訴状のとおり陳述でよろしいですか?」
と原告代理人席に向かって言った。すると杏子が
「はい、陳述します」
と答えた。続いて未歩は
「被告代理人の方も、提出済みの答弁書のとおり陳述でよろしいですか?」
と被告代理人席に向かって言った。被告代理人は弁護士1人。答弁書に復代理人として名前の上がっていたらしい、若手の弁護士が
「はい、陳述します」
と答えた。あんず法律事務所の弁護士3人は、相手の弁護士が誰であるかなど関心は無かった。だから、当日は誰が来るか知らなかったし、知ろうともしなかった。晴一や真理子より何年か先輩の若手弁護士が来たなといった程度だった。被告代理人に陳述を求めた未歩は、
「原告代理人、答弁書に対する反論、つまり他の証拠提出は有りますか?」
と杏子に向かって聞いた。杏子は
「ありません」
とだけ答えた。未歩は
「それなら結審します。判決は5月25日に言い渡します。では閉廷します。」
と淡白に言って立ち上がった。すると書記官が
「ご起立ください」
と慌てて言った。未歩以外の全員も立ち上がり、未歩が一礼するとともに他の全員も一礼した。未歩は、晴一とも、誰とも眼を合わせることなく法廷を去った。
閉廷したのは午後1時3分。晴一の損害賠償請求訴訟の口頭弁論は、わずか3分で幕を下ろした。それもその筈だ。真理子の作成した訴状には、裁判で訴える事実、すなわち請求の原因には
「被告が原告の預金口座を、給料振込日に、給料相当額分、滞納処分として差し押さえた。憲法に違反する処分によって、原告は財産権、幸福追求権、人格権、平等権などの基本的人権を侵害され、給料相当額及び精神苦痛の損害を受けた。」
としか書かなかった。あとは、具体的にどの憲法条項に違反するかと違憲審査基準を書いた。さらに、預金口座は、国税徴収法制定当初とは役割があまりにも異なっており、無条件に預金口座を差し押さえる正当性が失われつつあるとも付け加えた。すると、被告側は答弁書で、処分があくまで「適法」だったことを裏付ける反論と証拠、晴一が姉の美菜子や同僚の真理子と暮らしていて、差し押さえを受けたことにより金銭的にも精神的にも損害は受けていないと主張立証してきた。
裁判官にとっては、事実関係については極めて単純な事件である。ただ、原告が憲法違反を主張しているのに対し、被告は、適法を主張するのみで、憲法に適合した処分という反論はしていない。
このことについて、あんず法律事務所の弁護士3人にとっては裁判官に触れてほしいところだった。あえて触れなかったのなら、既に心証は形成されている。未歩であっても所詮エリート裁判官。他の裁判官と一緒で、処分は適法であることを金科玉条のようにして憲法判断に踏み込まないつもりなのか。しかし晴一は、未歩なら憲法判断に踏み込んだ上で、かつ、客観的な判決を出すと信じた。
次の法廷は午後2時に組まれていた。晴一の事件は傍聴者が多いと予めわかっていたので、晴一の事件の後は間隔を開けて組まれていた。それでも、事務官は速やかなる退廷を促した。すると出入り口に近い傍聴人から徐々に退廷し始めた。40人の傍聴者が退廷すると、続いて報道関係者が退廷した。こだま市の職員と代理人がそれに続き、晴一たち4人が最後に退廷した。 晴一たち4人が出口を出ると、待月記者が晴一たちのところへ寄ってきた。そして杏子に
「あれだけ短い裁判で、われわれ素人には全くわかりませんでしたが、保田先生としては、手応えをどうお感じになりましたか?」
と聞いた。杏子は
「裁判官の心証は形成されているようです。どちらに転ぶかは全く窺い知れませんでしたが、われわれとしては手を尽くしました。報道陣のみなさん、そして、傍聴に来て下さったみなさんの視線が力になったと信じています。みなさん、ありがとうございました。」
と答えた。すると、ガード役になっていた報道陣の隙間を、美心がすり抜けて行った。そして傍聴しに来たファンに向かって
「今日はミムの兄のために来てくれてありがとう」
と声を振り絞るように言った。晴一は慌てて美心がファンにもみくちゃにされないように守ろうとしたが、ファンは美心に指一本触れることなく拍手歓声を上げるにとどめた。美心は人差し指を縦にして口に当て「シー」のポーズをした。歓声は瞬く間に静まった。美心は晴一たちを呼び寄せ、3人の弁護士たちとともに裁判所を後にした。ファンたちは、美心を大人しく見送った。
4人の後からは、待月が追ってきた。今度は晴一に取材をしたいようだった。お喋りな晴一は
「マスコミさまさま、美心さまさまです。こんな汚い処分が当然のように行われていて、訴えたら揉み消すような真似をする。そんなことが行われてきたことを全国民に普く知らしめて、マスコミ含めた国民が睨みを利かせて裁判所を動かす。これがボスの作戦です。」
と得意気に語った。すると杏子が晴一に睨みを利かせた。晴一は、恐縮して口をつぐみ始めた。そして
「今のは聞かなかったことに」
と訂正した。待月は、晴一の発言としては記事にしないが、気持ちは同じだと伝え、その思いを自分の言葉で書くと言ってくれた。
5月25日、判決期日。言い渡し時刻は、午後1時。刑事裁判と異なり、民事裁判では判決は主文のみ読み上げられ、理由を読み上げられないことが多い。そのため、当事者は出廷しないことが殆どだ。晴一たちも南東京簡裁へは行かず、特別送達が来るのを待った。翌5月26日の午前中に、南東京簡易裁判所から特別送達が来た。晴一が開封した。判決は、こうだった。

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