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もののあはれと想像力

美について考えるにあたって想像力(カントの用語としては構想力)は欠かせない。
カントにおいては想像力(=構想力)は多様な感覚与件を一つの表象に統合する能力ということになっている。それが目的なき合目的性を備えた調和の取れた状態に至った時に快が、そして美が現れるといったところか。

宣長が歌や物語に対して与える地平はもののあはれであるが、もののあはれを「知る」と言われるように、知的認識が重視されるようだ。実際もののあはれを知ることは人の行動や世間のありようを知ることだという。宣長はもののあはれについて「感ずべき事にあたりて、感ずべきこころをしりて、感ずるを、もののあはれをしるとはいふを、かならず感ずべき事にふれても、心うごかず、感ずることなきを、物のあはれ知らずといひ、心なき人とはいふ也」(『源氏物語玉の小櫛』第二巻)と説明している。つまり、「必ず感ずべきこと」というのがまずあって、それに「感ずる」のがもののあはれだということだろう。宣長のモデルは以下のようなものだ。作者は現実に何か「感ずべきもの」を見て、それを作品として表現する。そして鑑賞者はその作品に含まれている「感ずべきもの」に触れるから感ずるということである。それだから、鑑賞者は作者が置かれている現実をある程度知っていなければ、「感ずべきこと」が「感ずべきこと」である所以もまた知らないということになる。これを先のカントの図式に当てはめれば、多様な感覚与件を十分に知ることがもののあはれを知るということになろう。素材が十分にあれば、与えられた「感ずべきこと」を感ずることは自ずからできるということである。カント以後の想像力は、現実から離れて自由に美的な表象を創造するものという理解であるのに対して、宣長はあくまで現実に足をつけている。ただし、それは両者が全く異なるというのではなくて、単に重心の違いである。現実を離れた表象が美的になるのは悟性的認識と合致する時であるが、宣長はこの悟性的認識を強調しているに過ぎない。いくら虚構の物語といえど、それが美しい限り、何らかのリアリティがある。歌論にせよ物語論にせよ、作品の何が美しいのかに目を向けている以上、作品が孕むリアリティを強調するのは道理である。美を道徳に還元しようとしていた風潮に対して、美的なるものの価値を擁護せねばならなかった宣長が、美の非現実的な側面をどう捉えていたかはわからない。産業社会において理性に対して感性の優位性を説くことによって脱現実化を見たシラー、マルクーゼ、ヴァッティモとは反対に宣長は、儒教が説くような家族道徳ももののあはれなくして存立し得ないこと、つまり現にある社会の基盤に美があるということを主張する。それは経済的関係のモラル的基盤の一つにコミュニズムがあるのだと説くグレーバーにむしろ似ている。ただ、前者と後者の立場は見かけ程遠くはない。宣長はあくまで現実に定位している。もしかしたら、宣長の脱現実は、逆説的だが神話に託されていたのかもしれない

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