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客観的、という意味を知った14歳の夏

陸上競技を始めたのは13歳の春、まだまだ細くてか弱かった頃。
色が白くて弱そう、そんなわたしを生きるのが辛くて、スポーツを始めたくて、初心者でも大丈夫で道具を使わなくて、なんとなく好きなこと。そんな、少しも綺麗じゃない理由で始めた部活である。

#スポーツがくれたもの  それは、わたしに客観的な評価基準の素晴らしさと残酷さであった。

中2の夏、3年生が引退して初めての試合で、わたしはリレーメンバーに選ばれた。100mのタイムは5番目、リレーは4人で走るのでタイム順ならわたしは補欠のはずである。
しかし、当時のわたしはチーム内で200mを専門にしている珍しい人(当時、女子の400mが中学生の試合でなかった)で、長い距離を走る変な人という位置付けであった。
リレーはカーブを走れなければならない。
わたしともう1人が200mを専門種目として走っていたが、そのもう1人というのがエースなので彼女は4走。
直線を走る100mはみんな早いのだが、カーブを走るとなると身体の使い方が変わる。
他にもいろいろ理由はあったのだが(練習の出席率とかも加味されたと聞いてはいるが)200mでカーブに慣れているわたしが3走に抜擢されたのである。

客観的な指数というのは、ときに残酷さを表す。練習の出席率、タイム。技術でも監督やコーチの好みでもなく、誰もが認めざるを得ない数値がそこにはある。
リレーはチームプレイだというが、ほかのチームスポーツと違い、バトンさえ渡せばなんとかなる。そのわずか5秒前後のプレイを合わせれば、後は1人で走るだけなのだ。

ずっとチームスポーツが苦手だった。誰かと息を合わせる以前の問題で、技術がないので自分をなんとかするので精一杯だった。
だからこそ、1人で走れる陸上競技には向いていた。
そして、誰かの好みに左右されず、全てタイムという形で表されるその感じも好きだった。
文句も何も言えない、一発勝負の世界。誰もが認めざるを得ない速さと強さ。

社会人になった今でも、その評価基準は役に立っている。
好みや相性で選ぶのも良いが、全てがそうだと面白くない。客観的な指数も用いながら取捨選択するのが正解である。

当時、わたしをリレーメンバーに抜擢してくれた顧問は言っていた。
「速いだけでも、ルールが守れるだけでもダメだ。やる気だけでも。全てが揃って選ばれたんだから、自信を持ちなさい。」
タイムという絶対的な指数が教えてくれた残酷さと、顧問の優しさを胸に、今日もわたしは何かを選ぶ。

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