苦しいので筆をとる

趣味がある。
Twitterで承認欲求というものは子を持ちたいという感情がぐちゃっとして変容したものだと言ってる人がいた、あまり言い方を寄せるとアレなので自分の解釈に寄った言い方をしている。

私が趣味だと思っていたものは「これくらい私でも出来る」と思ってやっていた事だったのかもしれない、

実際に技術があろうが無かろうが似たようなことが出来ても私は「それができる誰か」にはなれない。それができるからと言って誰かを構成する要素はそれだけじゃないから。

落ち込んでいる。
身体が疲れていて、明日からの出勤が不安だからだ。会社を見たら、電気が着いている。置いていかれているようにも感じる。
寒いのもある、来週のごはんを考えないといけないが、それもできていない、使ったお金の計算をするのにもまだできていない、読みたい本を机に置いたまま、読めてない、ソシャゲのイベントで欲しい景品があるのに、それもできていない。
そんな中で趣味さえしたいと思っている、

身体が動かない

SNSであまり辛い辛いと言いたくなくなっている時期で、うまくTwitterでも吐き出せない

とても頑張っても頑張っても、普段生きてて他人から褒められることなんてないし、他人に依存することだって馬鹿げているのだけど、
見知らぬ他の誰かが褒められているとき、それが自分が出来ることだったとしたら、やはり褒められたくてそれ私もできる!てそれをするんだろうな、
褒める人はさ、私じゃなくてその人だから褒めたのに。

どうしてこんなに飢えているんだろう
頑張って頑張っても、誰にも褒められる事なんてないことをどうして頑張ってしまうんだろう

できるのが当たり前な訳じゃないのに
私は頭の障がい者のレッテルを抱えている身だが、
なまじ真面目で後天的に外的ショックで知力は付いたのと、いい子であらねばならんと言う強制が幼い頃からあったので取り繕うのは上手かったせいで、
中身のポンコツ度が表面に基本的に追いつかない、
なんでも出来るように見えて実際のところ酷い有様だ。中の下以下なのを努力で、血と汗と涙と多大なるストレスの代償によって得た努力でカバーしてきた。

他人の頑張りなんて基本だれも興味無い
なのに、なんでこんなに頑張ってきたんだねって言われたいんだろう
自分以外の人達だって頑張っていて、
それは本当に感じているけど
なんで自分で自分のことを頑張ったねって言うだけじゃ足りないのか

くるしい、
くるしい

人間が有り余っている世界で誰かに必要とされる行為は椅子取りゲームだ
必ずあぶれる人間はいるでしょ
誰にも必要とされず、孤独に質しんで行く人たち
でもあぶれるっていうだけで必要とされてなくても役にはたってるんだろうな

必要とされたい方向性のものを自分で選べないのは本当にストレスだけど必要とされているだけ喜べと?

頑張ったねとか、自分の能力を評価して欲しいって気持ちは、
自分に自信がないから、誰かに愛されたいから「己の有用性」を他人から証明されたいという事なんだろうか。



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