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憂鬱を乗りこなす

たまにどうしようもなく憂鬱になる日がある。具体的には昨日がそうだった。
1日中精神の調子が悪く、どうやら駄目っぽいな…と思いながら帰宅、部屋着に着替えてカーテンを閉め切り、床でごろりと横になる。園への迎えまでの短時間、無理矢理電源を落とすみたいに眠る。

いつもならお気に入りのサイトを巡回したりTwitterを眺めたりするのだが、疲れている時のインターネットは娯楽ではなく毒になるとどこかで読んでからはスマホからなるべく意識を遠ざけるようにしている。愉快な記事や動画がそこにあることは分かっていても、疲れているときは絶対に目を通さない。じゃないと、愉快なものを探してインターネットを永遠に彷徨い続ける羽目になる。元気になりたい時にインターネットは禁物である。

30分寝てもすっきりしたりはしない。むしろいい感じに寝起きの頭はぼんやりしていて、余計なことを考えずに済む。薄く汗をかいたので冷蔵庫から麦茶を取り出して勢いよくギャンと飲む。そのまま台所に立ち、夕食の準備をする。切って、茹でて、味をつけていると、もうもうと立ち上る湯気に包まれて少しずつ気持ちが落ち着いてくる。料理は段取りを考えて、その通りに手を動かしていると口に入るものが完成するのですごい。ちょっとしたセラピーだなと思う。疲れている時には簡単な料理をこなすようにしている。

夕食の準備が終わって、園への迎えまでに15分ほど時間が余ると、インターネットをしたくて指先が疼く(インターネット中毒者の症状)。この短い自由時間がなかなかの曲者で、何をするにも短く、しかし子どもが帰ってくる前の最後の自由時間なので何かしたいと気持ちだけが焦る。結局この日はYoutubeでお気に入りのチャンネルの動画を観た。20分くらいの動画だったので、8割くらいまでしか観られなかったがケラケラ笑える類の動画で気持ちが少し明るくなる。
Youtubeに映される彼らの姿と、実際の人物像には大きな違いがあるのだと分かってはいるが、それでも彼らが今日もどこかで元気にしているのだと思うと、心に小さな火がぽっと灯るような感じがする。好きでいさせてくれてありがとうございますと思う。

時間になったので、迎えのために家を出る。こういう日は仕事で社会性を全て使い尽くしてしまっているので、迎えのための服装を考える気力が全くない。
元気があるときは小綺麗なカジュアルワンピースを着たりするが、そんな気力もなかったので履き古したジーンズと二軍の部屋着であるくたびれたTシャツにダサいサンダルという最悪のいでたちで外に出た。床で寝るときにコンタクトを外してしまったので顔はすっぴんにメガネである。おしまいの服装なので俯き気味に歩く。
園に着くと門の前で談笑しているママたちがいた。ママ友ってどうやって作るんだろう?ママ友がいたらすっぴんメガネで迎えには来れないから、いないままでいいやと思う。

子どもが帰宅してから寝るまではわずか3時間程度だが、この時間にタスクがぎっしりと詰まっている。まずは子どもを風呂に入れる。ここ1年以上、ひとりきりで風呂に入った記憶がない。ゆっくり湯船に浸かって動画でも観れたらリラックスできるだろうなあといつも思う。
中からおもちゃが出てくるタイプの入浴剤を毎晩湯船に入れることにしていて、子どもはこれを楽しみにしている。子ども用の入浴剤は信じられないくらい発泡時間が短く、どぎつい色で、しかも甘ったるい香りがする。ピンク色に染まった苺の香りの湯に浸かりながら、育児が終わったらこの色と香りを懐かしく思い出したりするのかしらと思う。

風呂から出たら育児をNetflixにバトンタッチして、夕食の仕上げをする。夕食の後は本を読み聞かせたり、迷路や工作のドリルをしたりして、歯磨き、トイレ、明日の幼稚園の準備、それでやっとおやすみなさいの時間が来る。家の中が急にシンとする。

案外、母親役をやっている時は憂鬱の波は来ない。これは医者をやっている時も同じだ。母親だったり医者だったりの顔をしている時、自分自身の駄目さからは距離を取っている気がする。患者さんに共感的な態度を取ったり、子どもに優しくしたりしている時の私は、私であって私ではない。

思うに、ずっと自分自身でいるというのはしんどいのかもしれない。仕事が終わって帰宅して、子どもの面倒をみて、子どもが寝てしまうとシンとした家の中で私は私自身に戻る。医者でも母親でもなく、ただの紺になる。憂鬱な時、一番大きい波が来るのはこういう時間かもしれない。どんな憂鬱も100年後には全て夢の跡、と何度も唱えながら静かな自室で本を読んだり勉強をしたりnoteを書いたりする。

昨晩は憂鬱がひどすぎたので久しぶりに長い時間をかけて本を読んだ。

頭が良い人が書いた面白い本だった。こういう本を読んでいると、波立った心が段々と落ち着いていくのを感じる。いつも心のどこかでは考えていたけれど、うまく言葉にすることは出来なかった色々が適切な言葉になって心の正しい位置に戻されるような感じがして、読書ってやっぱり良いなと思った。

翌朝起きた時にはかなり気持ちも落ち着いていた。自分が自分であることに耐えられなくなった時の一番の処方はやっぱり読書だなと思う。今夜の私は比較的陽気だが、どこかで憂鬱に苦しんでいる人がいるに違いないと思うので、そしてまた私が同じ症状に襲われた時のために、このnoteを残しておく。

Big Love…