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親として未熟

週に3回もnoteに書くことがあると思うか?こんばんは。日曜日のnote更新です。

最近娘(3歳児)が通っている園とは別に習い事に行くようになったんですが、そこであったことについて今日は書いていきます。
だいたい10人くらいのクラス制で、工作をしたりダンスをしたりして1時間くらい過ごす週1度の習い事なんですが、先週初めて、3歳児が泣いて帰ってきました。

3歳児は親である私と全く似ず社交的なタイプで、習い事に初めて行った時も私の方を振り返らずスタスタ教室に入っていくくらいお友達と遊ぶのが好きです。私が小さい時は親と離れるのがとにかく嫌で、幼少期唯一させられたピアノのレッスンも”先生とお友達が嫌だ”と言って即辞めてしまったので母と娘といえど性格って似ないものなんだな…と思っていたのですが。

そんな3歳児が号泣しながら帰ってきたので、習い事の後に近くのファミレスに入って話を聞きました。3歳児なりの説明では、身につけていたものをお友達に強い言葉で馬鹿にされたらしく、穏和な環境で育ってきた3歳児はびっくりしてしまい、泣いたようでした。
3歳児は言われた言葉の意味はよく分かっていないようで、語気の荒さにびっくりした様子でした。

そうかあ、悲しかったねえ、まあ世の中にはいろんな人がいるからね。別に仲良くできなくてもいいんだよ。というような旨の慰めの言葉を口にしたところ、”でも、●●ちゃん(意地悪を言った子)、教室から帰る前に優しくしてくれた”とやや困惑した様子で言っており、3歳児なりに人格というものの難しさを学んだようでした。

そう、意地悪な人が常に意地悪だとは限らない。小さい子向けのアニメって悪人は悪人だし善人は善人で、キャラクターが属しているサイドがはっきりしているけれど、現実は時と場合によって態度は変わるし、意地悪な行動の裏に好意があったり、優しい言動の裏に悪意があったりする。

こういうことを大人は当たり前に知っているけれど、そういう感情の機微をこの子はこれから体当たりで学んでいかないといけないのかあ…と思うと、ちょっと気が遠くなりました。生きていくって本当に大変だな。特に大人になるまでのチュートリアルモードが面倒くさすぎる。私はチュートリアルモードで躓きまくったから2度とプレイしたくない。

私は比較的子どもに対する愛情がクールな方だと自認しているのですが、それでも娘とファミレスで話した日から、3歳児が対人関係で傷ついたという事実がじわじわと胸のつかえになっている感じがありました。

身につけているものなんて、正直いくらでも良くできる。買い替えてやって、馬鹿にされないような見た目にするのは簡単です。でも、なるべく親の好みよりは自分自身の好きなように服を着てほしいと私は思っていて、あまり親の好み丸出しのファッションはさせたくない。

親が介入して馬鹿にされなくなるのは本当に簡単なことだけど、そんなことをしても根本的な解決にはならない。他人を平気で馬鹿にするような人は、いくらでも欠点を見繕っては半笑いでこちらにキツい言葉を投げつけてくるからです。

でも、私はあまりにも娘の外見に無頓着なのかもしれない。母親として、もっと娘の外見に気を遣って…と思ったところで”やめやめ、あほくさい”と正気に戻りました。

自分の子どもが男の子だったら同じことを考えたか?絶対に考えなかった。女の子だからママが手をかけて可愛くしてあげなきゃ!なんてジェンダーロールで凝り固まったゾッとするような考え方です。少なくとも娘が自らそれを望むまでは、親として余計な手出しはしたくありません(服は私と娘の好みを擦り合わせてシーズンごとに買い足し、月に一度は美容室で髪を切り、ヘアゴムやピンなども娘が欲しがる時は買い与えています、外見について親として手出しを全くしていないわけではないです、念のため…)。

今まで読んできた本や身につけてきた感性で正気に戻りはするのですが、それでも胸のつかえが私を呼び戻しにきます。ああ、どうすれば良いんだろう…。

そもそも習い事なんてやめちゃえばいいのかしら。でも、一度ちょっとキツい言葉を掛けられたくらいでやめることはないよな…。やっぱり娘の好みよりも一般受けしそうな見た目に寄せていった方が…いやいやそんなことは…と1週間ぐるぐる同じところばかりを歩き続け、とうとう週に1回の習い事の日が再び来てしまったのでした。

前日からさりげなく”明日は教室に行く日だね〜♩”などと言って習い事のことを匂わせたりして反応を伺っていたのですが、健気なのか3歳児なりの記憶力しかないからなのか”たのしみ〜”などと薄い反応しか返ってこず、この1週間親だけで悩んできた馬鹿馬鹿しさにまた胸のつかえが重くなります。”あたしって、ほんと馬鹿…”と思いながら3歳児と手を繋いで教室に向かいました。

道中はいつも通り陽気だった3歳児が教室に入った途端に目を潤ませてシュンとしたのを見た瞬間、”ああ、この子、思い出したんだ…”と確信したのですが、ここまで来たからには流れに身を任せる他ないと覚悟を決め、先生にお任せして教室を後にしました。

いつも3歳児を習い事に預けている時間は近くのスタバで本などを読みながら時間を潰しているのですが、今日は娘がまた悲しい思いをしていやしないかと気が気ではなく、読書も全く捗りませんでした。
自分の幼少期を思い出し、友達に少しくらい強いことを言われても他に楽しいことを見つけて平気で園に通っていた記憶を見つけ出して気持ちを慰めたりしていたのですが、それでもやっぱり自分の娘が対人関係でトラブルを抱えているとなると、それはそれで胸が痛みます。

あの日から1週間かけて悩み抜いた末、スタバで(やっと)ふと正気に戻り、どうして私は自分の娘といえど他人の受けた言葉についてここまで深く悩んでいるんだろうと思いました。

3歳児は1週間、すっかり自分自身の受けた痛みについて忘れて楽しく過ごしていた。それなのに、親である私が勝手にうじうじ悩んだ末に、張本人である娘が勇気を持って教室に入って行ったのにいまだに傷口をひとり弄り倒すような真似をしている。明らかに正気じゃないと気づいて、やっとこの時、思い悩むのはもうやめにしようと思えました。

子どもの受けた痛みを親自身の痛みと思うような自他境界の曖昧な親にだけはならないでおこうと思っていたのに、こんなにも簡単に心が濁るのかと思うとゾッとしました。
娘の痛みは娘だけのものであって、親である私が勝手に悩むのは傲慢という他ない。娘は成長すれば必ず、親の手の届かないところに行ってしまう。私は私の人生をやっていかないといけないのだから、娘の悩みを勝手に自分のものにしてはいけないんだと改めて思いました。

習い事から帰ってきた娘はニコニコしていて、”楽しかった〜、●●ちゃん優しかった”と嬉しそうで、ホッとするとともに、2度と娘の人生に勝手に立ち入るまいと思いました。
今は娘は3歳で、親の介入で一時的には人間関係を円滑に運ぶことが可能かもしれない。でも、娘の長い人生において親の力が及ぶ範囲は限られている。子育ての最終的な目標は子どもを親の呪縛から解き放つことです。子どもを容易にコントロールすることができる年齢だからこそ、積極的に手を離して流れに身を任せる練習が必要だなと、そして、私は親として全く未熟だなと、深く反省した出来事でした。

Big Love…