一冊挙げるなら耳元で
六本木にある文喫に行った。
名前は知っているのに行ったことがない場所の代表が文喫である。推してる団体が文喫でポップアップストアをやっていたので遊びに行った。今住んでいる場所から六本木って若干遠いんだよな。行けなくはないけれど、ちょっと気合いを入れないと遊びには行けない距離の場所、それが私にとっての六本木だ。
ポップアップストアは入場料を払わなくても観覧できる場所に設置されていたが、文喫は本来入るのにお金がいるタイプの本屋だ。折角六本木まで来たのでポップアップストアを見るだけでは勿体無いと思い、1650円を払って中に入った。入場料さえ払えば、あとは無料のコーヒーなどを飲みながらいくらでも本を読むことができる。
私のベスト本屋は神保町の三省堂書店(現在工事中につき移転している)だが、文喫は三省堂書店に並ぶくらい居心地が良かった。
座って本を読めることがこんなにありがたいとは…。それなら図書館でいいじゃんって言われそうだけれど、あらゆる本を満遍なく取り揃えている図書館と、選書に意図が感じられる文喫は、本のある場所としてのカラーが異なる。
文喫には私が既に読んで、自宅の書棚に大事にしまっている本が何冊もあった。
これとか
これだ。
私が新しい本を読もうとする時、SNSで信頼できる読み手だと(私が勝手に)思っている人が勧めていた本を選んで買うことが多い。
『喪の日記』はかなり目立つところに置かれていて、手に取った。読んでみるとわかるのだけれど、1ページあたりの文章の密度はかなり低い。母親の喪失という巨大な異物が作者の人生に影を落とし、その影の下でもがく様が綴られている。
こういう文章が延々連なっているのだった。私は打ちひしがれるほどの痛みを伴う他者の死を経験したことがない。だから、ここに書かれていることのほとんどは私は本当の意味では分からない。
でも、これは私が医者として働く中で、何度も傍観者として接してきた種類の痛みである。10年以上に渡る長患いの末に夫を亡くした妻、行ってらっしゃい行ってきますのやり取りを最後に娘が軽トラに撥ねられ、永遠の別れを経験することになった母親…悲嘆に暮れる彼ら彼女らの声は何年経っても忘れることはできない。
彼ら彼女らは、あの時一体どんな気持ちだったのか。医者は所詮、命ある者にしか寄り添うことを許されないので、患者さんが亡くなった後の家族の長い長い物語を知ることはない。
”それなら、ほかの人たちは充分すぎるほど持っている”という一文に他者との深い断絶と悲しみを感じて、この本を買うことに決めたのだった。
あとはつげ義春の『無能の人』を読んだりして、文喫ではのんびりした良い時間を過ごしました。最近暇さえあればクイズ関係の暗記をしたり早押しクイズをしたりしてしまって、それ自体は別に悪いことではないのだけれど読書量が減ってしまっていた。
本を読むための場所に行って、集中して本を読む時間を作るのは良いなあと思った。六本木、若干遠いけれどまた行こうと思います。
Big Love…