見出し画像

傷つく資格がない

たまに、大したこともしていないしされていないはずなのに深く傷ついて疲れていることに気づく日がある。
あれ?おかしいな、今日は別に大した仕事もしていないし、確かにちょっと疲れるようなイベントはあったけれど、そんなに酷い目には遭っていないはずなのに…。

首を傾げながらとぼとぼ帰る。風が吹いて前髪が目にかかる。いつもだったら指先でサッと直すのに、直す気力が全く湧かない。こういう時、家に直帰するとさらに元気がなくなると分かっているので、数日分の夕飯の買い物を済ませるべくスーパーに寄る。即座にベッドに倒れ込まないと無理なくらい疲れている時以外は、むしろタスクを適度にこなしてから帰った方が良い。家で1人っきりで休んでいても、ストレスで神経が発火していて眠ることもできず、無駄に時間が過ぎていくことで焦燥感が悪化するからだ。

買い物のためにメモを作ってきたのに、そのメモを鞄から取り出す気力がない。売り場を歩きながら適当に買う。メモを作った今朝の時点では、私は元気だったんだ。元気だった朝の私が元気であろう夕方の私のために作ったメモだから、元気じゃない私には縁がない。

気持ちがぐだぐだのまま、スーパーの袋を提げて帰り、友人にLINEを送る。ものすごい気分が落ち込んじゃって、仕事でちょっとしたトラブルがあって、と短いメッセージを送る。友人Aとはほぼ毎日LINEをする仲で、もしかすると同居している夫よりもよく話しているかもしれない。
Aと話しているうちに、仕事で抱えたトラブルの細部が見えてくる。深く傷つくほどのことじゃなかったのに、と思っていたが、Aを相手に話していると私自身が勝手に記憶の奥底深くに沈めてしまった細部が次々と水面に浮き上がってくる。
思い返してみると、結構ひどいことを言われたかもしれない。自分が傷ついていたことに、無意識のうちに見て見ぬふりをしていたかもしれない。

そっか、今日の私が疲れているのは当たり前のことだったかも…と、Aと話してやっとそう思えるようになる。理不尽な感情に振り回されているような、自分が自分を制御し切れていないようなそんな不全感があったけれど、そうではなくて、私がこうなるのは仕方がなかったのかもしれない。Aと話すLINEの画面上で自分の記憶と感情が適切な言葉を与えられて、あるべき場所に還されていく。

よほど強い言葉で殴られたりしないと、人は自分が傷ついているということに目隠しをして気づかないようにしてしまうものなのかもしれない。それは一種の防衛反応だ。傷ついて打ちひしがれるための資格みたいなものが自分の中にあって、その資格がないと無意識に感じている時、”どうしてそんなに傷ついてるの”と自分を問いただしてしまう。問う人と答える人が同じなので、当然答えは出ない。

他人であるAを介在させることで、Aの言葉が呼び水になって、沈んでいた記憶の細部が徐々に浮き上がってきて自分を納得させることができた。なんとなく嫌だな、程度の記憶だと、仕事の忙しさにかまけてその記憶は水面近くには残らない。理由はないのになんだかしんどい、どうしてなのか分からない、そういう時こそ他人と話すべきなのかもしれない。

美味しいと話題の紅まどんなを初めて食べた。薄皮の存在感がほぼなくて、直接果肉に齧り付いているようなみずみずしさがすごい。

文鳥にも見せてあげた。


Big Love…