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セルフレジ問題考

月曜日の仕事が終わって晩酌をしながらTwitterを眺めていたら、セルフレジ問題が燃えていた。元ツイートを引用することは避けるが、セルフレジが混雑している時に子どもに会計をやらせるのはやめてほしいというような内容で、正当性もあれば反論も可能な絶妙な内容だったので、案の定議論はは大盛り上がりしていた。

脊髄反射で反論めいたTweetを投稿したが、140字以内で論旨を述べるのは無理なので、そして自分の言いたいことを全て書いてしまうまではセルフレジ問題が頭の片隅から離れてくれそうにないので、ここに全て書く。書いてこの問題についてはきっぱり忘れる。
Twitterで紛糾している問題に嘴を突っ込むと魂の格が下がって天国への道が遠のくが、仕方がない。今回はそういう内容なので、嫌な予感がした人はここでブラウザバックしてください。


そもそも、後ろで待っている人たちを待たせるのは悪である


他の国ではどうか知らないが、日本では割と常識レベルでそう思っている人が多い。チャージ不足で改札に引っ掛かると後続の人に舌打ちされるのは通勤ラッシュあるあるだ。とにかく流れを止めてはいけない、迷惑をかけてはいけない。こういう常識の良し悪しについてここで論じるつもりはない。ただ、常識としてすでにこの社会にしっかり存在しているよねという話である。

混雑しているセルフレジで子どもに会計をさせるなというのは、この常識に則った発言である。人間が持つ多種多様な背景を無視して”他人を待たせるか待たせないか”で単純に比較をすれば待たせる方が悪いに決まっている。誰もがそう思うだろうに、それをあえて言葉に出して再確認する必要なんてあるのか?ないだろう。だって常識なんだから。

セルフレジを停滞させるのは自由意志によるものなのか?

散々常識という言葉を使っておいて恐縮だが、道徳の話をする。
他人を待たせないというのは道徳レベルの話だと私は思っている。道徳って何だと問われると、素人考えだが、道徳とは人間の集団が社会生活を営むにあたって、トラブルを起こすリスクを最小化するための決まりだと答える。トラブルは御免な私たちは、改札よりずっと手前でSuicaのチャージ額を確認しておくし、セルフレジではなるべくもたつかない。

道徳を守れない人を責める人たちの発言を見ていると行為者の自由意志を信じているなと思うことが多い。セルフレジを停滞させる”バカ親(今回のような問題が取り沙汰される時、本当にこの名称を使っている人が多い。バカ親という言葉を使うことに抵抗はないのか?)”は故意に道徳を踏み躙り、トラブルを起こすリスクが最小化されたこの社会にフリーライドしているのが気に入らない、そういう論旨が非常に多い。

だが、我が身を振り返って考えてみた時、全ての行為は自由意志から出たものだと言えるだろうか?
Suicaのチャージをしておくのを忘れて改札の流れを止める時、それは本当に自由意志によるものなのか?うっかり忘れただけだ、と大抵の人は答えるだろう。そこに意志はない、と。
しかし、よく思い返してみれば昨日夕の退勤時にSuicaの残額が数十円しか残っていないことを確認していたかもしれない。明日の朝に駅構内に入るには確実に残高が足りない。その時にチャージしておけば良いものを、後回しにしたのは自由意志ではないのか?

全ての行為は自由意志によるとも言えるし、そうでないとも言える。Suicaをチャージしなかったのは明確な意志があったわけではなく、なんとなくその場の雰囲気に流されてTwitterを見るのを優先してしまったからかもしれないし、夕飯の買い物のことが頭にあってスーパーに急いでいたからかもしれない。ほとんどの人はそんな感じだろう。明日の朝の通勤ラッシュ時間帯に残額不足のSuicaで改札を通ろうとして、後ろにいる赤の他人を困らせてやろうっと♪と思っている人は(おそらく)存在しない。


ここまでくれば、賢明な読者の皆様なら(このフレーズをいつか使ってみたいと思っていた)私が何を言いたいかお気づきのことと思う。Suicaチャージ忘れ人間にはそこまで怒ったりしないのに、セルフレジを停滞させる親子には烈火の如く怒ってしまう人がなぜ一定数存在するのか。
炎上と拡散を狙っているわけではないので、分かりやすい答えをここに書くことはしない。これ以上書くと感情に任せた攻撃になってしまうなと感じて、どうしても筆が進まなくなってしまった。それは私のやりたいことではない。
最近読んだ本から引用をしてこのnoteを終わる。あとは読んだ方たちの中で結論を出してもらえれば幸いである。重要な部分を太字としておく。

近代法は、ほとんど瞬間的に発生する自動車事故や大企業の吐き散らす公害などを通じて、行為と結果とのあいだに因果関係が明確に立証されない場合でも行為者の責任を認めるという無過失責任へと進んでいきますが、こうした流れは責任追求の終止点の性格をよく示している。

つまり因果関係の始点としての心の状態がたとえ確定できなくても、依然として責任追及の態度は変わらないのです。

中島義道『後悔と自責の哲学』より引用



Big Love…