見出し画像

諦めながら、格好悪く書く

毎週noteを更新するようになってから2ヶ月くらいが経った。毎週2000字〜3000字くらいの長さの文章を(今のところ)書いているが、更新日が近づくたびにネタ切れの影に怯えている。土曜日と日曜日は仕事に加えて子供の世話があり、腰を据えて物を書くことができない。考えることは書くことのずっと手前にあるが、子供と日がな一日一緒にいるとぼんやり考えを巡らせることすら難しい。

高尚なテーマを取り扱う必要のない気楽で暢気なnoteなので、何も書けなくなったら全てを諦めてその週にあったことをありのままに列記しようと思っている。が、毎週月曜日の夜くらいになると小心者なので心がざわつき始める。今週こそ何も書けないかもしれない。列記は最後の切り札として取っておきたい。そんな時はパソコンを立ち上げ、Evernoteに溜め込んだストックを見返す。

文章以下の思いつきでしかない思考の断片みたいなものをEvernoteにせっせと溜め込んでいる。日常生活で行う思考の大半は無意識の領域にするりと逃げてしまう。書けそうなことが頭に浮かんだ瞬間に尻尾を捕まえて記録しておくためのツールとして、Evernoteは非常に便利である。この方法については『ライティングの哲学』を参考にした。

この本は継続してnoteを書くにあたって非常に役に立った。
noteを始めたのは2019年9月で、つまり2年以上前である。初めのうちは書くことに対して妙に構えてしまい、構えのせいでなかなか着手できず何も書けないという悪循環に陥っていた。

初期のnoteの記録 更新できていない月もある

手に負えない課題を前にすると、せっかく爪に火を点して溜めたなけなしのモチベーションが途端に蒸発する。結果、書くことに取り掛かること自体が先延ばしにされる。また書くことを回避することで、苦手意識はいよいよ増悪していく。
「書けない」とは単なる無能力というより、そうした苦手意識と先延ばしの悪循環の中に囚われの身となることを言うのだ。

ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論

まさにこれである。

1週間に1度更新するようになって、本当はもっと時間をかけて書くべきなんだろうなと内心反省する週もあった。ただ、締め切りを強制的に定めたことで中途半端な状態でも無理矢理に完結させざるを得なくなった。今まで締め切りを定めずに書いていた頃、月に1回程度のペースでしか更新できなかった頃に感じていたのは、自分はその気になればある程度のものは書けるだろうという感情で、つまり紛れもない自惚れだった。

「もっともっと」という幼児性が働いている段階というのは、基本的には現在の自分には扱えない水準を扱おうという欲望なんだと思うんですよ。だからどうしても「まだできるはず、まだできるはず」と、自立しなさそうな粘土作品をこねくり回して肥大させ続けているような感じなんじゃないですかね。

ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論

昨年末ごろにこの一節を読んで深く反省し、格好悪くても良いからとにかく数を書くところから始めないといかんなあと思った。下手くそなものを書くのは恥ずかしいが、自惚れだけがどんどん肥大していくのが一番まずい。

幼少期からあまり友達付き合いが得意ではなく、いつも小説の中の空想の世界にトリップしていた。小中学生にとっての書くことの代表格である読書感想文や作文は苦手だったのだが、大学生の時にTwitterが現れて潮目が変わった。短い文章をぽろぽろ書き、それを見てくれる人が段々と増えて、完全に味を占めた。

20代の終わり頃、小説を書いてみようと目論んだ。しかし、びっくりするほど才能がなかった。賞に応募する以前の問題で、そもそも物語を完結させることができない。が、才能がないと理解してもなお、書くことが好きだという気持ちは消えなかった。自分の頭の中にだけあった考えが文章として生成され、自分の外側に出て形を成す楽しみは他の何にも代えられなかった。

書くことをどうにか続けたいと思い、ちょうど良い場所を探しているときにnoteを見つけた。ぽつぽつと書き始め、少しずつではあるが読んでくれる人たちが現れて、とうとう定期的に更新し続けると決めた。どんなに仕事が忙しくても、週末に育児で時間を奪われても、週に1回という自分が自分に課した制約が、私を強制的に机へと向かわせる。

これを書いている今も、もっと面白く書けんものかなあとか、長さが足りんのじゃないかなあとか、読んだ人をあっと言わせるようなものを書きたいわなあとか、様々な雑念が浮かんでは消えていく。小説を書こうと目論んで文章をこねくり回していた頃と雑念の量は全く変わっていない。
週に1度の更新をしようと心に決めていなければこんなぼやきはインターネットに流れていくことはなかったはずで、誰に依頼されたわけでも、はっきりと期待されているわけでもないのに書き続けるのは狂気としか言い様がないのかもしれない。

ヒトとしての成熟が、「自分はきっと何者かになれるはず」と無根拠に信じなければやってられない思春期を抜け出し、「自分は確かに何者にもなれないのだ」という事実を受け入れるところから始まるように(地に足のついた努力はここから始まる)、書き手として立つことは、「自分はいつかすばらしい何かを書く(書ける)はず」という妄執から覚め、「これはまったく満足のいくものではないが、私は今ここでこの文章を最後まで書くのだ」と引き受けることから始まる。

ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論

才能がないと自覚した時点で書くことに対する思春期は終わった。これが自分に書ける精一杯だと引き受け、人前に出し続けることだけが今私にできることだなあと、毎週noteの公開ボタンを押すたびに、そう思っている。

Big Love…