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言いたいこと言えない、根性なしじゃない

この週末も3歳児と長い時間を一緒に過ごしたので、その時のことを書く。

3歳児はだいぶおしゃべりが上手になって、自分の意思を伝えることができるようになってきた。おやつが食べたいとかあのおもちゃで遊びたいとか、簡単な意思表示はできるようになったのだが、それでも親からしてみると、まだまだコミュニケーションが完全ではないなと思う時が多々ある。

休日は丸一日娘と過ごすので、親の方が疲れてしまい、テレビを観て休憩しよう!と提案することが一日に何度かある。
テレビを観る時は娘が観たい番組を指定することになっているのだが、番組の説明が拙くて、何を指しているのか全く分からないことが多い。
”アンパンマン!”とか、”プリキュア!”なら分かるのだが、”みんなが出てきて虹色の服を着て踊るの!”とかだと正直お手上げである。正解はおかあさんといっしょだった、そんなの分かるわけがない。

我が家はNetflix, Hulu, U-NEXT, Disney+を契約しているせいで、そもそもどのサブスクに登録されたプログラムなのか分からないところから番組の選択が始まる。娘の話ぶりが拙いと、ログインする場所すらわからない。正直心の中で”頼む…番組名をはっきり指定してくれ!”と強く思う。

同じようなことは幼稚園からの帰り道でも起きる。
今日、A先生に叱られちゃった、と帰り道に娘が呟くので、なんで叱られちゃったの?と聞いても、答えは全く要領を得ない。
叱られたこと自体を親である私に話したくないのなら分かるのだが、話しぶりからは、娘は本当は私に伝えたいことがあるのに、うまく話せない様子である。語彙力の不足、自分のもやもやとした感情をどんな言葉に落とし込めば適切に伝えられるのか分からないもどかしさ、そのようなものだけが伝わってくる。
ただただ娘が叱られたということしか解らず、どうして叱られたのか、娘としてはどんなわだかまりを抱えているのか不明なままの、私としてももどかしい帰り道である。

そんな3歳の娘を見ていると、早く一丁前のコミュニケーション能力を身につけて、言いたいことを全部言えるようになると良いね、と思う。しかし、言いたいことを全部言えるって何なんだろうか。それは、成長して大人になれば身につくものなんだろうか。

語彙力が大人と同等になれば、本当に自分の伝えたいことがきちんと伝わるのか?と考えた時、答えはノーだと思う。私が同い年くらいの人間と話していても、私自身の本当の感情を伝えていることはごく稀で、その場に合わせたコミュニケーションをするべく感情を適当な言葉でコーティグして口に出している。考えている本当のことは、例え大人同士のコミュニケーションでも伝わることはほぼない。

そんなことを考えていたら、今読んでいる本に興味深い記述を見つけた。

私は言葉を習得することによって、存在から意味の世界に移行し、そのことによってナマの私から決別し、抹消された私を引き受けざるをえない。私は言葉を習得することによって、私の欲望を他人の欲望として語る(エノンセ)ことしかできなくなり、しかもまさにそのことによって私固有の欲望を語り続けようとする(エノンシアシオン)のである。
エノンセの主体とエノンシアシオンの主体とのズレを引き受けること、それが(言葉を用いて)私が語るということなのだ。

中島義道『人生に生きる価値はない』より引用

この記述は、まさに私が考えていたことを過不足なく表現してくれている。豊かな語彙を持ち、自分の気持ちを相手に伝えるべく適切な言葉を選べるようになっても、それは”自分の本当の感情”とはどうしたってズレてしまう。それを語る相手との関係性や場の雰囲気などに影響されて、その場において最も適切な言葉を無意識に選ぼうとするが故に、私たちの口から出る言葉は、本当に考えていたこととは大きく乖離してしまう。

子どものコミュニケーションの拙さを私たち大人はもどかしく感じがちだが、私たち大人も決して、本当に考えていることを口に出しているわけではない。一見対等に話せているように見える私たち大人の間でも、深淵のごとく深いコミュニケーションの齟齬が生じているのだろうなと思うと、子どもと大人の対話と大人同士の対話に、大きな差はないのかもしれないなと思ったりする。

Big Love…