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noteは読んで欲しいけれど、私の話は聞かなくて良いです

人と話をするのが苦手である。特に雑談が苦手で、話題が自分の方に向いてきたなという気配を感じると1秒でも早くその場を離れたくて逃げ腰になってしまう。

どうして自分について語ることに耐えられないのか、おそらく幼少期の経験が原因になっている。基本的に発言が重視されないタイプの子供だったから、いつもクラスの隅っこの方で小さくなっていた。小学2年生の体育祭で、クラスのテーマ曲を決めることになった。テレビもあまり見ないし流行りの曲も知らない子供だったので黙っていようかなと思ったけれど、ZARDという歌手の負けないでという曲だけは知っていたので、一応手をあげて、”負けないでが良いです”と言った。黒板には10曲ほどが書き出され、挙手での投票をすることになった。

顔を伏せて投票するような雰囲気でもなかったから、どの曲に何票が入ったかは丸わかりだった。結果として、私の挙げた曲に入った票は1票だけで、それも私自身が入れた票ではなく、ものすごく心の優しい友達が入れてくれた票だった。その子は何度も、負けないでが通らなくて残念だと言ってくれた。日和って得票が多そうな曲に手をあげたことも、ものすごく心の優しいその子を裏切ってしまったことも猛烈に恥ずかしかった。

思いつきで物を言うとろくなことにならないという教訓が胸に刻まれ、以後はますます発言を控えるようになった。他人の承認が得られないと話す権利はないのだみたいなことを小学校低学年なりの頭で考えていた気がする。面白くて魅力的な話がしたい。ぼんやりとそう考えてはいたが、なんせ小学校低学年なので話の面白い人間が周りにいるはずもなく、担任の女教師も真面目で四角四面を絵に描いたような人だったので、どうすれば良いのか全く手がかりのない状況だった。

小学3年生に上がった時、入学してから初めて担任教師が変わり、猫3匹と暮らす陽気な女教師が担任になった。小説を読むことと人を笑わせることが何より好きで、私のようにクラスの隅にいるようなタイプの生徒にもよく声をかけてくれる人だった。いわゆる”浮いている”状態を悪しとしない大人に出逢うのは初めてだったから、私はすぐにその人のことが大好きになった。どうにかして好かれたいと思い、勉強も頑張った。小説もたくさん読んだ。彼女のように面白い話ができれば良いのにと思っているうちに小学3年生は終わってしまい、4年生になるとまた、真面目な女教師が担任になった。

4年生からは部活動が始まった。各自希望する部活を第3希望まで書かせてもらえるが、希望が通るとは限らず、所属できる部活は最終的に教師側が決めるという、今考えればめちゃくちゃな制度だった。どうしても3年生の時の担任との縁を失いたくなかった私は、彼女が顧問を担当する演劇部を第1希望に書いた。演劇部は1番人気の部活で、私のような目立たない生徒が希望を書いても、通るはずのない希望だということは分かっていた。演劇に興味はなかったが、先生と一緒にいられるなら何でも良かった。

理由は分からないが希望が通ってしまい、私は演劇部に所属することになった。4年生で所属することになったので、上には5年生と6年生がいた。特に6年生にはハッとするほど美しい先輩がいて、その人は常に劇で主役の座を掻っ攫っていた。

4年生で入部した時は全員端役を与えられたが、5年、6年になるにつれて段々と重要な役柄を与えられるようになった。劇を披露する機会は年に1回しかなく、部活動に割く時間も、週に1回数時間だけだった。生徒各々の実力の程は明らかではないにも関わらず一切オーディションなどもせずに役柄の配置は教師の一存で決まることになっていた。私は実生活通りの地味な役柄ばかり与えられ、ちっとも面白くなかった。

特に面白くなかったのが、6年生の時に披露した劇の最中の出来事だった。私と対の役割を与えられた子が本番で台詞を間違えてしまい、戸惑った私は数秒間沈黙し、結果として彼女の間違いに対応する形で台詞を変更して喋った。その後何とか劇は無事に軌道に乗ったのだが、幕が降りた後に責められたのは、台詞を間違えた彼女ではなく、劇中に数秒間の間を空けてしまった私の方だった。

クラスでは愉快で陽気な先生だった3年生の頃の担任も、複数人顧問がいる演劇部ではいつも小さくなっており、私を助けてくれることはなかった。彼女は3人いる演劇部顧問の中でも最も年齢が低く、継続勤務年数も短かった。演技の巧緻や機転の効かせ方には大した意味がなく、実生活での地位が全てを決めるのだと私は早々に結論づけ、つまらない、演劇なんて金輪際やめてしまおうと思った。一度自分が正しいと信じると頑なになるところや、その他性格上の問題が私にも多くあったと思うが、その点について省みることもなく、中学以降、私が演劇部に所属することは二度となかった。成長した後に演劇の面白さを知るにつけ、演劇をきっぱりやめてしまったことについては本当に惜しいことをしたなと思う。



30を過ぎた今でも、職場で雑談として趣味や芸能人の好みなどを訊かれると身構えてしまう。訊かれたことに対しては当たり障りのない答えをするように心がけ、場の空気をなるべく乱さないよう気を付けているのだが、そんなことを長年続けてきた成果、本当のことを答えるよりもその場の空気を優先する妙な癖がついてしまっている。

趣味は、地味なんですけど読書です。村上春樹とか、よく読みます。
実際よく読むのだが、村上春樹が作家として一番好きかというと全くそんなことはない。なんとなく、世間が読書家という言葉を聞いた時一番に連想するのが村上春樹ではないかと思うからいつもそう答えてしまう。(村上春樹に対して失礼な発言かもしれない。著作はほぼ読んでいるくらい好きな作家ではある)

無難な回答をしておけば、自分の好みについてあれこれ詮索されずに済むという気持ちが強いのは、あの日の負けないでのせいなのかもしれない。1票しか入らないような回答をしたくない。1票しか入らない回答をすれば、その理由を詮索されてしまう。詮索された時の私の語りは、誰にとっても聞く価値のあるものだとは思えない。本当は誰とも話したくないのかもしれないと思いながら、毎日たくさんの人に囲まれて働いている。



ある日、外来を終えて病棟に向かう道すがら、患者さんからの要望やご意見などが書かれた紙が貼られている場所を通りかかった。ふと目のとまる1枚があり、そこには外来を受診するたびによく話を聞いてくれて感謝していること、とても話しやすい先生なのでこれからもお世話になりたいという旨が綴られていた。

日付や内容から、それが私に宛てられたものであることはすぐに分かった。手紙の主が誰なのかも。腰のひどく曲がったおばあちゃんで、ここのところ認知症の具合がひどく、外来に来るはずの日付も忘れてしまうような80代の女性である。最近は娘さんを伴って受診するようになり、ご本人の話が要領を得ないので、概ね娘さんが普段の状況について話をするような状況だった。

自分の家への帰り道も、その日食べたご飯も分からなくなってしまうような人が、外来診療で感じた気持ちを忘れないように1枚の紙に綴ってくれた。私はいつも、認知症の彼女のとりとめもない話に特に口を挟むこともなく黙って頷きながら聞いていた。会話について誰かに褒められるようなイベントが自分の人生に発生するとは、小学生の頃は想像もしなかった。医者の仕事をしていると、たまにこういう瞬間が訪れる。この仕事が天職なのかもしれない。


現実世界では自分について話すことに対して逃げ腰なのに、インターネットではこうして延々文章を書いている。私の中には、本当は話したいことがたくさんある。聞きたい人は最後まで聞くし、興味のない人はふらりとその場を離れるくらいの気楽さがあればいくらでも話していられるのかもしれない。インターネットにはそういう気楽さがある気がするから、延々文章を書いてしまうんだろうな。これからも実生活では絶対に話さないようなことをここに書いていこうと思う。

Big Love…