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私は”育児”が得意ではないけれども

子育てよりも楽しいことはこの世に無限に存在する。というか、大抵のことは恐らく子育てよりも楽しい。子供は可愛いか?と問われればイエスと即答するが、可愛さだけで許せることってそう多くないんだなと日々実感している。


私が週何回かやっている外来にも、子供を連れた若いお母さんが来ることがある。ほっぺが落ちそうなもちもちの赤ちゃんを見ると、可愛いですねえ…と思わず声をかけてしまう。娘を産む前はそんなふうに声をかけたりすることはなかったのだけれど、最近は赤ちゃん時代のことが無性に懐かしく、よその赤ちゃんを見かけるとつい頬が緩んでしまう。

娘が赤ちゃんだった時代は、正直可愛いという感情を素直に抱くことはできなかった。泣いている理由が分からない。言葉が通じないから、何を考えているのか分からない。絵本を読んであげても返ってくるのは喃語ばかりで手応えがない。一生懸命世話はしたけれど、全てが暖簾に腕押しだった。

娘が保育園に入ったのは1歳を過ぎてからで、つまり1年以上は家でほぼ2人きり、私が主に娘の面倒をみていた。元々仕事が好きで、外では忙しく働いて家に帰ってからは一人静かに本を読んだり物を書いたりするのが好きな性格だったのだが、娘が生まれてからは当然生活は一変した。数時間おきの授乳に加えていつ寝たり起きたりするか分からない爆発寸前の時限爆弾を常に抱えているような生活だった。

あんなに苦労して、人生で一番辛いとすら感じた時期のことを今は懐かしく思い出す。よその赤ちゃんが無条件に可愛いなと思えるのは、その成長に何の責任も負っていないからだと思う。無責任に愛でることのできる対象は、あやす声まで甘くなるほど可愛い。


娘が生まれてからも、書くことは捨てられなかった。暇さえあれば取り憑かれたように書くことについて考えてしまう。腰を据えて書ける時間は短いが、娘という未知の存在と暮らしているからか、誰かに伝えたいことは前よりも増えた。娘と一緒にいても、これは書けそうだなと思うことがあるとiPhoneを取り出してメモをする。娘はそんな私を妙な母親だなと思っているかもしれない。

子供である自分よりも大事なことがある母親って、子供の目にはどんなふうに映るんだろうか。先日、”お名前なあに”というフレーズを覚えた娘が、私の名前を尋ねたので、初めて私の名前を教えてあげた。すると娘は笑い転げて、”ママはママでしょ!”とのことだった。娘の世界では私は常にママであって、私に他の顔がある可能性については全く知らない。

赤ちゃんにとって、人間関係は自分を中心とした1対1の関係から始まる。赤ちゃん対母親、赤ちゃん対父親の1対1関係のみの世界。中心に自分のいない関係については想像が及ばない。どうやら母親と父親は自分抜きでも仲が良いらしいぞとか、母親は自分のいないところで何やら知らない大人たちと仕事をしているらしいぞということが理解できるようになるのは、かなり成長した後のことだ。

1対1の親密な関係を脱した先で、人生は長く続いていく。世界は自分のためにあるのではないと、生まれたからには必ず知ることになる。むしろそうなってからの方が人生はずっと長い。

言葉が通じず、抱き締める強さだけで愛を伝えねばならなかった時期はあっという間に過ぎ去ってしまった。3歳になった娘はよく喋る。園で友達とどんな遊びをしたのか、何のお歌を歌ったのか、一生懸命話してくれる。言葉で世界をコーティングして、私たちは通じ合うことができるようになった。3歳の娘の目を通して世界はどう見えているのか、彼女なりの言葉でこれからも伝えて欲しいと思う。


10年以上は続く長い育児の中で、娘にとって、私は出会う価値のある人間たれるだろうか。娘をチケットとして育児という世界にログインした身としては、もうすでに十分すぎるくらいの経験をさせてもらっている。このnoteを書くこと自体、娘がいなければ決してなし得ないことだった。

娘が私と出会った価値を感じるのは、果たして何歳の頃だろうか。3歳?それとも小学校に入ってから?もしかすると思春期以降かもしれない。いわゆる”育児”は乳幼児を対象とした親子二人きりの親密な関係を指しがちだけれど、こちらの手を振りほどくようになり、肌と肌とが触れ合わなくなってからも育児は続くのだ。肌の触れ合いよりはずっと、言葉のやり取りの方が得意な私としては、どんどんお話が上手になる今後に親としての役割を期待して欲しいなと密かに思っている。


※このnoteを書くにあたって以下の本を参照しました
『子どものための精神医学』滝川一廣
https://www.igaku-shoin.co.jp/book/detail/17261


Big Love…