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今以外全部嘘

母の日関係のnoteを1000字くらい書いたのだが、ここに書いてあること全部嘘だ…という気持ちに急になってしまい、無かったことにしてデリートし、何食わぬ顔で新しく文章を打ち込んでいる。

書くことがなくなるとつい過去に遡って思い出を漁って何か書けることはないか探してしまう。しかし、過去の自分が考えていたことは、例えそれがどれだけ強烈な感情であったとしても既に過ぎ去ったものだ。ライブ感がないから説明過剰になり、どうしても面白味に欠ける。例え感情の起伏、いわゆるエモさが少なくとも、今現在の私が考えていることを書く方がよほど面白い(と私は思っている)。

最近中島義道の『後悔と自責の哲学』という本を読んでいて、責任というものは何かマイナスの出来事が起きた際に初めて発生するものなのだなあという、理解している人からすれば当たり前すぎる事実を初めて腹の底から理解した。
飲酒運転をしても誰も轢き殺さず、警察にも見つからなければそこには責任は発生しない。行為の時点では責任は存在せず、その後に何かが起きた時に初めて、遡るかたちで責任は発生するのだ。
何も起きなければ責任は発生しないという事実が私にとってはかなり衝撃的で、これは私が職業柄、人の命を預かる重みに始終怯えているせいかもしれない。
”何か起きる”可能性を常に恐れており、退勤間近になると発作的にその日の外来のカルテを全件見直したり、入院患者の点滴内容を確認し始めたりしてしまう。やや強迫的である自覚はあるが、これくらい慎重な方が医療従事者には向いてるんじゃないの?!と最近は開き直るようにしている。

どうして責任の話をしたかというと、知床で観光船が沈んだ件で、以前から無線交信の記録簿に複数の空欄箇所があったというニュースを見てしまい、明るみに出ていないだけで第二第三のKAZU 1がこの世の中にはたくさんあるのだろうな…と思ったからだ。

運航会社の社長は死ぬほど叩かれているわけだが、責任を問われているか問われていないかの差だけで似たような劣悪な運航を行っている会社は他にもあるんだろうな…と暗い気持ちになってしまい、本当にこの世の中は恐ろしいところだなあと思った。楽しい観光に出掛けたはずが冷たい海に沈むことになった方々の無念さはいかほどか。心からご冥福をお祈りする。

連休も終わり、明日から日常が戻ってくる。正直ほっとしている。連休中にしたことといえば、公園に行って幼児の遊びにひたすら付き合うくらいのもので、前回のnoteにも書いたが、思考らしい思考を巡らせる暇は全くなく、自分は思弁的な人間である自覚があるのでかなりしんどかった。仕事中は暇になるとカルテを見ているふりをして全く関係ないことを考えたりしているのだが、幼児と一緒にいると常に何らかの欲求に応え続ける必要があり、ものを考える暇が全くない。

3歳ともなると幼児の欲求のレベルもかなり上がってきて、最近はお勉強のドリルをやりたい!という欲求が強い。とはいえ所詮3歳児なので大したことができるわけもなく、果物の数はどちらが多いか答えましょうとか、同じ形の図形を選びましょうとかせいぜいその程度の問題しか解けない。
しかし、3歳児はそれを延々やりたがる。30分以上りんごやみかんの数を比べ続けるとこっちは発狂しそうになるのだが、3歳児は飽きもせずずっと数えたがる。
子どもは長い時間を家庭で過ごすわけで、親の立場にある自分がしっかり勉強を見てやるのが成績を伸ばす上では恐らく必須だろうと思うのだが、言うは易く行うは難しである。りんごの数を数え続けて発狂しない自信がない。なるべくなら子どもの好奇心を親の手で折りたくはないという気持ちはあるが、なかなかどうして大変なものだなあと思う。

結局当初の母の日noteより断然長くなってしまった。
過去に遡って良いものを書くには当時の気分を再生しないといけないのだけれど、それがかなり難しい。なんとか思い出して感情の整合性をとり、それらしいオチをつけると全部嘘くさく見えてしまう。無理矢理一つの物語を立ち上げようとするからぎこちなさが出る。そういうのが上手い人もいるんだろうが、私はまだまだ下手くそである。過去についてうまく書けるようになりたい。

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Big Love…