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愛が簡単に分かってたまるか

Twitterあるある、Tweetが拡散されても特に良いことはない。

宇多田ヒカルさんのロングインタビューがWebにも掲載されて誰でも読むことができるようになっていた。その中で、愛について語るパートがあり、身につまされたので以下のようなTweetをした。

全く拡散されることを想定していなかったのだが、そこそこ拡散されてRT先で色々なコメントがついた。
Tweetした時点で誤読される可能性は考えていたのだが、案の定”宇多田ヒカルは子どもを愛していないわけじゃないでしょ、記事の内容ちゃんと読んだか?”的なコメントが目につき、

そんなことは分かってるわい

と思った。私の言葉が足りなかったことは事実なので、ここで書きたいことを全部書く。

子どもが生まれると自動的に母性愛に目覚めるのが常識になっているこの世の中で、宇多田ヒカルが”やっぱりわからなかった”と言葉にしてくれたことがありがたかったのだ。私が言いたかったことを端的に表現するとそういうことになる。
先日『母になって後悔してる』を読んだときにも思ったが、子どもが生まれても愛が分からないと発言するのは、母になって後悔していると宣言するよりもずっとタブー寄りの発言だと思う。母になって後悔している女性たちのインタビューですら、彼女たちは繰り返しこう言う。母になったことは後悔していますが、子どものことは愛しているんです、と。(愛していない、と愛が分からない、の間に距離があることは明白だが、どちらも母という立場で口に出しづらいという点では似ていると思う。)

一方私は、母になったことを後悔はしていないが、子どもを愛しているか?と言われると、ちょっと考えてしまう。
大切だ。健やかに育ってほしい。そう強く思うが、子どもに向けるその感情が愛なのか?と言われるとよく分からない。

”みんな愛って「気持ち」みたいなもので語るけれど、私が産後に感じたのはオキシトシンの作用と「本能的な義務感」で、愛ってなんなのかよくわからなかった”

VOGUEのインタビューより抜粋

義務感、私にとっても子どもに対する感情はそれが一番近い。私がそうすると決めてこの世に生み出した存在だから、責任を持って育てる必要がある。私にとって子どもはそういう存在である。

子どもと親の関係は非対称で、力のバランスが大きく親の方に傾いている。親は家庭から逃げられるが、子どもは逃げられない。子どもは親と違って所属する世界を選べない。どんな悪い親でも、ある程度の年齢までは子どもは親のことを嫌いになれない。

愛という言葉で思うのは、本当に愛を与えてくれるのは親ではなく子どもの方だということである。家庭と学校くらいしか知らない、狭い世界で生きているがゆえの、子どもが親に向けるひたむきな愛情。子どもが親に抱く愛は本物だと思う。では、親はどうなのか。親が子どもに向ける感情が愛なのか、私にはよく分からない。

”親や周りにいる人が子どもにしてあげられる一番大事なことって、ある程度の大人になるまでは根拠がなくていいから、安心感とか自己肯定感を持たせることだと思うんです。自己肯定感は、なんでも「いいよいいよ、最高」って言うことじゃなくて、子どもが何かの理由で悲しいと思っていたら、大人からしたらたいした理由じゃなくても、「悲しいよね」ってその都度認めてあげること。そういうところから自己肯定感って芽生えてくると思うんですね。自分がこの気持ちであることはオッケーなんだって”

VOGUEのインタビューより抜粋

私は子どもに何をしてあげられるだろう。
インタビューを読んでから考えていたが、私は子どもに安心できる場所を作ってあげて、いつでもそこから冒険に出られるようにしてあげたいと思っている。
親が与えられるものは限られている。幼稚園に通い始め、私の知らないところで歌い踊り、新しい言葉を覚え、友達を作り始めた娘を見ていると、親が全てを請け負う必要はないのだと感じる。
私にできることがあるとすれば、家に帰ってくれば安心できるんだと思ってもらえるように努めることだ。ここにはあなたが座る椅子があり、食卓には温かいごはんがあり、清潔なベッドがあり、喜びも怒りも悲しみも、表現する自由が保証されている。いつでも私はあなたをここで待っている。

最近3歳になった娘は何度も、”ママ大好き!”と言う。私も”娘のことが大好き!”と答える。言葉を覚えた娘は毎朝幼稚園へ小さな冒険に出かけ、帰ってくると何があったのか拙い言葉で話してくれる。
娘には徐々に人格らしきものが芽生えつつあり、幼いなりに自分の意見を持っている。歩いたり走ったりするようになった足で一緒に色々なところに出かけ、私と娘の間には思い出が積もっていく。

初めて幼稚園に行った日は泣いて帰ったこと、一緒に乗った観覧車から眺めた夕日に頬の産毛が照らされて淡く光っていたこと、生まれた直後は入院が必要なほどか弱かったのに今ではなんでも食べる元気な子に育ったこと。
私と娘の間に積もった思い出を振り返ると、生まれてからまだたったの3年なのに胸がいっぱいになってしまう。特筆すべきところのないありふれた思い出で、目頭が容易に熱くなる。過ぎ去った時間に対する感情は、確かに愛なのかもしれない。

親の手を振り解いてうろちょろ走り回り、覚えたばかりの言葉で憎まれ口を叩き、少しでも目を離すと余計なことばかりする娘を見ていると、親としての義務感ではち切れそうになる。しかし、いつか娘が家から出て行くその日には、全ての思い出が愛になるのだろうなと、そういう予感はすでに胸にある。いつか全てが愛になるその日まで、愛が分からないなりに親をやり遂げたいと、今はそう思っている。

Big Love…