推すことで自分を手放したい
いつも週末が一番疲れてる。こんばんは、日曜日のnote更新です。
質問に答えるぞ。
感じることしかない。依存症や傾倒、という言葉を使って書かれているけれど、遠い誰かを好きになる時って多かれ少なかれ同じことが起きている気がします。
対象が生身の人間でもバーチャルYouTuberでも、誰かを”推す”時って自分の外側にあるものに過度な期待を抱くという点では同じです。自分の外側にあるものに期待するのってギャンブルみたいなもので、気持ちよく推せているときは本当に気持ちがいい。好きでいさせてくれてありがとうという気持ちにすらなるし、自分の期待に応えてくれる”推し”と相思相愛な気すらしてくる。
でも本当は全くそんなことはないんですよね。こっちが勝手に期待しているだけで、相手はこっちのことは初めから何とも思っていない。認識すらされていない。幻滅したとき一番辛いのは、推しの欠点が暴かれたことではなく、かつて自分の中にあったはずの情熱が冷めてしまうことだと思う。もう元には戻れない。どんな熱狂も、正気に戻ってしまった時が一番しんどい。
私はよく退屈が怖いという話を書くけれど、誰かを推すのってかなり良い退屈しのぎになりますよね。熱狂するのって楽しい。普段だったらぎちぎちに締めている財布の紐がグッズを目の前にすると緩んで大金を出してしまったり、推しの言動にいちいち”尊い…”と思ってしまったり、明らかにまともな精神状態から逸脱していくのはいつだって愉快です。
オンラインサロンやイベント活動も楽しかったでしょうね。同じものが好きな人と会って話すのは楽しい。私にも経験があるので分かります。多分新興宗教やマルチもそうやって人を囲い込む仕組みがあるんだろうなと思います。最初から共通項ありきの人間関係は前提をすっ飛ばして本質的な話ができるので、熱が入るのも理解できます。
私たち、どうして半狂乱になって誰かを推してしまうんでしょうね。これは私自身が友人に指摘されたことですが、私には意識変容を楽しむ悪癖があります。飲酒で手軽に愉快になりたがるのもそうだし、恋愛脳で失恋すると泣き暮らして10kgくらい体重を減らすのもそうだし、とにかく普段の自分を手放すのが大好きです。
自分じゃない誰かに期待するなんて、正気の沙汰じゃない。”推し”の話について書いてきたけど、いわゆる恋人や配偶者との関係も多少は感情の相互作用があるものの、コントロールできない他人を支配しようとするという意味では無謀な振る舞いです。
誰かを推したり恋愛をしたり神を信じてみたり、私に限らず人間誰しも、意識変容を楽しむ悪癖があるんじゃないかと思います。だって、人生はシラフで押し通すにはあまりに長すぎるから…。
今日の回答は以上です。質問箱を開けていると、こういう他人の人生の話が聞けるから、本当にありがたいと思っている…。私はこういう話を聞くのが大好き。もし良ければ、回答不要でも書きたいことがあれば送ってきてくださいね。
来週は話題の新作、すずめの戸締まりを観る予定です。実は君の名はも未視聴だから、映画館に行く前に絶対に観るぞ…。観たら多分感想をnoteに書くと思います。久しぶりの映画館、楽しんできます。
Big Love…