見出し画像

気まずさに負けたくない

園からの帰り道で3歳児が癇癪を起こした。
事の発端は湯船に入るかシャワーだけで風呂を済ませるかという割とどうでも良い問題で、3歳児は湯船に入りたくて、私は暑いからシャワーだけで済ませたかったので、帰り道で喧嘩になってしまった。

喧嘩と言っても私の方が圧倒的に優勢である。そもそも最終決定権はこちらにある上に、自分の感情を説明するための言葉や相手を説得するための理屈がこちらには無限にあり、3歳児の武器はほぼない。武器がほぼないので、3歳児は泣くしかない。というわけで、帰り道で派手に号泣されてしまった。

最近の3歳児は泣けば要求が通ると思っているフシがあり、また、その日は本当に暑くて絶対に湯船に入りたくなかったので、要求を飲まないことにした。だめだよ今日は、シャワーだけで済ませよう、暑い日は湯船に入らないって約束したでしょ、と説得しにかかったが、ますます泣き声は大きくなった。

子どもが本気で泣き始めると、涙が出ていること自体が悲しくなってしまって泣きの無限ループに入り、収拾がつかなくなる。こうなると大人のちゃちな理屈は絶対に通らない。

3歳児は大声で泣いていたので、通りがかりの人にじろじろ見られる。これが結構こたえる。でも、一過性の癇癪なので耐えるしかないと親である私は知っている。
号泣する声と周囲からの視線に耐え、夏至を過ぎたばかりで午後5時ごろでもまだ高い位置にある夕陽に照らされて、不快な汗がじわじわ出てくる。一体これはなんの修行なんだ、と思う。湯船に入ってもいいよと折れるべきなのか?いやしかし…と心の中で静かに問答を繰り返し、そのうち家に着く。

結局宥めながらシャワーを浴び、3歳児を先に洗ってやってから私が急いで体を洗っていると、勢いよく飛んだ泡が3歳児の手についた。水道で流していいよ、と蛇口を捻って水を出してやると、先ほどまですんすん啜り泣きをしていた3歳児がパアッと満面の笑みになった。

やったー!洗っていいの?と言いながら大喜びし、流れる水に触っては周囲をびしょびしょにしてケラケラ笑い、その後はずっと笑顔だった。なんで?別に蛇口の水に触れるのが初めてというわけでもないのに…。
そもそも、シャワーvs湯船論争はほぼ毎日帰り道でやり合っており、今までは3歳児も”シャワーでいいよ”と言ってくれていたのだが、その日号泣した理由はよく分からない。機嫌が悪かったのか、はたまた毎日我慢を続けて限界が訪れたのか…答えは謎のままである。大喜びのスイッチも、大泣きのスイッチも、3歳児の心のどこにあるのか、親である私にも全然分からない。

結局、湯船は週末のお楽しみにしようね、おもちゃが出てくる入浴剤も買っておくからね、と約束して3歳児はご機嫌で寝た。蛇口を捻って笑顔になってからは、お気に入りの絵本を読んだり、パズルで遊んだりして穏やかな夜の時間を過ごした。

家の外で3歳児が号泣していると本当に気まずい。通りがかりの人から見れば、私は最悪の母親に見えるだろうなと思う。でも、ワンシーンを切り取って自分を責めるのはあまり意味がない。泣かれて怒鳴りもしなければ、理不尽に詰ることもしなかったのだから、他人から見たワンシーンで私が悪い親に見えてもそれはどうでも良いことだ。その場の気まずさに負けて、折れたりしない方が後悔は少ないと知っている。

でも、なるべく泣かないで欲しいな…とは思う。自分よりも圧倒的に弱い生き物に泣かれると、躾や教育という大義名分はあっても、どうしたってこちらが悪役である。早く言葉や理屈を身につけて私を言い負かすくらいになってほしいが、その頃には親のことなんてどうでも良くなっているんだろうな…と、自分自身の子ども時代を振り返るとそう思うのだった。

Big Love…