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文鳥歳時記

体調がやっと回復してきた。
外来をやっていると咳が出るので喘息用の吸入器を処方してもらったり、咳を止めるための薬を飲んだりはしているが、概ね体調は改善傾向である。
あまり体調が良くなかった間、主に家で過ごしてあまり外には出なかったので、必然的に文鳥と一緒にいる時間が長くなった。

文鳥は朝起きるとおやすみカバー(遮光性のある、文鳥の住んでいるケージを覆うカバー)の下でごそごそ羽繕いを始める。私が顔を洗ったりコンタクトレンズを挿れたりしていると、おやすみカバーの向こう側から、”ピ…ピ…”と催促の声が聞こえてくる。
催促に応えてカバーを外してあげると、しばらくは眩しいのか静かにしているが、周りの明るさに慣れると、おやつのシードが入ったお皿の方へ飛んでいって、昨晩の残り物を勢いよく食べ始める。大きな餌入れにはペレットという完全栄養食が入っているのだが、文鳥はシードの方が好きだ。まずはペレットを完全に無視してシードだけをバクバク食べる。
朝起きた時にお皿に入っているシードの量はそう多くないので、あっという間に食べ終わってしまう。
シードがすっかりなくなると、再び催促の呼び鳴きが始まる。”シードがなくなったんだが、どうなってるんだ?!”というクレームの呼び鳴きである。しかし、私も台所で朝ご飯の準備をしているので、すぐにはおかわりをあげられない。”ペレットを食べててよ〜!”と呼びかけると、しばらくすると諦めた様子で残り物のペレットをもそもそ食べ始める。シードとは違って、数粒食べるともう満足なのか、高いところにある止まり木で朝の羽繕いを始める。

出勤前に娘の世話や朝ご飯の片付けを終えると、文鳥をケージから出す。文鳥は待ちきれなかった様子でケージから勢いよく飛び出して洗面所に直行する。文鳥が家の中で一番好きなのが洗面所で、次点はカーペットの上である。カーペットは念入りに掃除しているが、たまにゴミが落ちていてそれを文鳥が摘むことがあるので、なるべくカーペットには着地させないようにしている。
洗面所には文鳥の大好きな鏡があるし、夫のバスタオルの上で羽繕いをしたりのんびりしたりするのが文鳥は大好きである。バスタオルはお気に入りなのに、夫本人のことは敵だと思っているようで、夫は文鳥に近づくと常に強めに威嚇されている。夫は文鳥と仲良くしたいらしいので、気の毒である。

洗面所で文鳥の飲み水を入れ替えていると、文鳥は蛇口から出る水に嘴を直に突っ込んでワイルドに水分補給を始める。我が家の文鳥は怖がりなのだが、なぜか勢いよく流れる水だけは幼い頃から全く怖がらない。水を飲んでいる最中は常に真剣な顔をしている。喉のあたりをクックッと動かしながら、冷たくて美味しい水を水道から直飲みするのが夏の朝のルーティンである。

満足するまで飲むと、洗面所からケージまでまっすぐ飛んで帰っていく。ケージに帰宅すると、シードの入っている皿にとまって、こちらをじっと見る。”シードが全く無いのですが…”という顔をしているので、袋から少しだけスプーンで掬って皿の中に入れる。入れたそばから文鳥は勢いよく食べ始める。文鳥がシードにがっついている間に、ペレットを補充したり、小松菜や豆苗をケージに入れたりして、朝のお手入れが完了する。

私が身支度を済ませて家から出て行こうとすると、何も言っていないのに私が出かけると分かるらしく、文鳥はソワソワし始める。”行ってくるよ、涼しいおうちでのんびりしてるんだよ”と声をかけると、いよいよ私の外出が決定したと思うらしく、裏返ったような高い声で呼び鳴きをする。心を鬼にして玄関に向かうと、諦めたのか”クルルルル…”と小さく寂しそうな声で鳴いて、その後はシンと静かになる。毎朝、”今すぐに仕事をやめて文鳥を抱きしめたい…”と思うが、寂しい雰囲気を出すと文鳥にとっても良くないと思い、黙って家を出る。

夕方に帰宅すると、足音で私だと分かるらしく、玄関で靴を脱いでいる頃から激しい呼び鳴きが始まる。手を洗ってからケージに近づくと、黒豆のような艶のある黒い目が興奮のあまり真ん丸になっている。ケージに一番近い止まり木でサイドステップを繰り返し、早くケージから出してほしくて完全に落ち着きを失っているのだった。
ケージの扉を開けると、朝と同じく勢いよく飛び出してきて、私の手のひらの上に乗る。指と指の間に嘴を突っ込んで、親愛の情を示す挨拶を何度も繰り返す。親指で頭を撫でてあげると、気持ちよさそうに目を細めて、瞼が下からきゅっと閉じて精一杯の笑顔を見せているような、そういう顔つきになる。

洗面所に連れて行って、蛇口をひねって水を出す。冷たくなった頃合いで、両手をお椀型にして水を溜める。手首のあたりにとまっていた文鳥は、しばらくもったいぶるような素振りを見せた後、両手に溜まった水の中に勢い良くドボンと飛び込む。洗面所の鏡や私の部屋着をびしょびしょにしながら、水浴びが始まる。

以前はケージに水の入った水浴び器を付けており、実際今でも水浴び器は付けているのだが、文鳥がケージの床に敷いた紙を引っ張って水浴び器の中に入れてしまい、紙が水を吸ってケージがびしょびしょになるので、最近はもっぱら私の手のひらの上で水浴びをさせるようにしている。
現在の水浴び器は文鳥のくつろぎの場になっており、水は入っていないものの、水浴び器の端っこにとまってうとうとしたり、やはり紙を引き込んで快適な巣を作ったりしている。水浴び器の中が乾いていればケージの中がびしょびしょになることもないので、そっとしておいている。

夜になると、文鳥が1日かけて水浴び器の中に引っ張り込んだ紙を片付ける。水浴び器の中に引っ張り込んだ紙の内部は大抵綺麗な空洞状になっていて、ここで1日のんびりしていたんだな、と思う。
紙を片付けて、夜の分のおやつのシードを入れてあげて、ある程度食べると私の手のひらの中で文鳥はうとうとし始める。そっと撫でるとうっとりした様子で文鳥はこちらに身を任せる。寝る前が一番長く撫でさせてくれる。ふわふわの柔らかい羽毛や、珊瑚色の脚の温かさ、ぎゅっと閉じた蛤みたいな形の瞼、何より人間よりも圧倒的に小さい身体を無防備に明け渡すその様子に、毎晩、”胸いっぱいの愛をくれてありがとうね…”と思う。

文鳥は優しい。毎朝毎夕、必ず私のことを待っていてくれる。
人間社会は毎日些事で大荒れだが、文鳥にとっては全く関係のないことだ。こちらの理とは関係なく、シードを欲しがり、冷たい水を浴び、私が帰ってくると必ず嬉しそうにする文鳥に、毎日、胸がいっぱいになる。大事にさせてくれてありがとう。家の外で何があっても、文鳥と過ごす時間は常に穏やかだ。1日でも長く、健やかに共に過ごしてねと、毎晩おやすみカバーを掛ける前に強く祈っている。

Big Love…