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虚しさを薄めて生きていこうぜ

今週はnoteに書くようなことが何もない。限界しりとりにのめり込んでいたからだ。


ルールを言葉で説明するより動画を見てもらった方が手っ取り早い。が、極めてシンプルなゲームで、指定された文字数の単語でひたすら繋げるしりとりである。持ち時間が先に尽きた方が負けとなる。

純粋な語彙力の勝負というより、最短距離で記憶の中にストックされた指定文字数の単語を引き出せるかが勝負の鍵となる。7文字の単語が鬼門で、指定されるとかなりしんどい。8文字以上の単語だとどれだけ長くても良いのでストックから引き出すのは7文字よりも楽だ(と私は思っている)が、これは個人差があるかもしれない。長めの単語指定が続くと単純に打ち込むのに時間がかかって不利になるため、運の要素も強い。何文字が指定されるかはおそらく完全にアトランダムである。

大好きなオモコロチャンネルのメンバーが限界しりとりをプレイしていたので興味を持った。元々言葉で遊ぶのは好きだし(私はTwitterを言葉で遊ぶ場所だと思っている)、運の絡む勝負も好きだ。A帯まではするすると上がれたが、A帯が魔境でなかなかその先に進めなかった。

語尾を”う”や”る”ばかりに統一する所謂”う攻め”や”る攻め”を制限時間内にこなすプレイヤーたち、帯が上がることで指定される文字数が増え、より一層問われる瞬発力、ここから先は対策をしないと上には上がれないなという感じがした。

そんなわけで、ここ数日は文字数のことばかり考えている。ニュースを見れば人名や地名に注目し、使えそうな単語があれば脳裏に焼き付け、本を読んでいる最中も長めの単語に注目して頭に叩き込んでいる。今まであまり興味のない単語は調べたりせず読み飛ばす悪癖があったのだが、しりとりに使えそうだと気づいてからは記憶を確実に定着させるべくわざわざGoogleで検索してWikipediaのページを読んだりしている(最近はプトレマイオス朝のページを読んだ。”ぷ”から始まる8文字以上の単語は貴重である)。ただのしりとりでも、新しいことに夢中になるのは人生の華、一種のお祭り騒ぎという感じがする。


今年の10月で35歳になる。この歳になると最早生活にあまり変化はなく、35年で蓄積された自分好みのパターンに沿って無難な日々を過ごしている。

特に子育てが始まってからはその傾向が顕著になった。子供がいると生活にかかる制約がかなり大きい。決まった時間に起きて仕事に行き、保育園には19時までに迎えに出向き、帰宅後は風呂と夕食を手早く済ませ、翌朝に備えて0時には布団に入る。健全そのものの生活を送っていると、ああ、私は夜にふらりと思い立って見知らぬ街に出かけたりすることは向こう10年以上ないんだなあ…と気づいてゾッとする。

子育てをしていると、人生にあるべき自由が理不尽に奪われているような、そんな失望感を抱くことがある。もしかして自分だけが損をしているのではないか?人生は本来もっと自由で、やりたいことがたくさんあったはずなのに。

最近、永井均の遺稿焼却問題を皮切りにして、哲学の本を読むようになった。『遺稿焼却問題』は信頼できる読み手が複数人勧めていたから軽い気持ちで買ったのだが、かなり良かった。何が良かったのかと聞かれると説明するのが難しいのだが…。分からないことと分かることのバランスが良かったのかもしれない。分かりやすいことばかり書いてあっても、逆にちんぷんかんぷんでも、どちらも読み手にとっては良い本とは言えないように思うから。

”山口尚『幸福と人生の意味の哲学』を読まれることをお勧めします。これはある種類の不幸(に陥りがち)な人にとっては限界的な名著です。この処方箋を信じることをお勧めします。”
-永井均『遺稿焼却問題』より引用

哲学的な問いに囚われて、しかも少しも進展させられない場合、それは不幸なことだから放棄する訓練が重要かもしれないという一節にこの一文が出てきたので、芋づる式に『幸福と人生の意味の哲学』も購入した(この要約は意訳かもしれない、本当の内容は本を読んで確認してほしい)。本来あるはずの自由が奪われていると感じることが哲学的な問いなのかは分からないが、子どもを育て始めてから3年、その問いが全く進展していないのは事実だった。

『遺稿焼却問題』を読んでも、『幸福と人生の意味の哲学』を読んでも、人生を乗り切るたったひとつの冴えたやり方が提示されているわけではなかった。むしろ、人生は基本的に無意味で虚しいということが繰り返し述べられており、しかし、これには逆説的に励まされた。人生には本来あるべき自由などなく、誰しも多かれ少なかれ人生の無意味さに耐えながら生きていると知ると、自分も歯を食いしばって生きていこうという気になった。

最近暖かくなってきたから春用の服を買いに街に出た。試着をして、似合いそうな何着かを見つけ、本格的に春になったらこれを着るぞと意気込んでブルゾンやスカートを買った。近い未来に思いを馳せながら希望を持って買い物をしたその瞬間は確かに幸福だった。帰り道、ふと、こうして人生の虚しさを薄めて生きていこう、と思った。

限界しりとりも、服を買って次の季節を待つことも、基本的には虚しい人生における刹那的な祭りだ。大抵の遊びはすぐに飽きるし、服は何度も着れば劣化する。それらは人生の本質とは程遠いけれど、そういう目先の幸福に縋りながらでないと虚しさに耐えられない。何冊も本を読み、虚しさに耐えているのは私だけではないと知って、かなり気持ちが楽になった。

希望のない人生というのはたぶんありえない。そして希望には、遂げるか、潰えるかの、二者択一しかないのではない。希望には、編みなおすという途もある。というか、たえずじぶんの希望を編みなおし、気を取りなおして、別の途をさぐって行くのが人生というものなのだろう。
-山口尚『幸福と人生の意味の哲学』より引用

かつて人生の全てを賭けて、医師になりたい、と願ってその夢は叶えられた。その時の熱がいまだに忘れられず、35になろうという今も、同じだけの熱量の希望を探して私は亡霊のように彷徨っているのかもしれない。

子供を産んで育ててはいるが、どうやら子育ては私にとっての熱狂ではないなと段々と理解できてきた。それでも何かを探して3年間、いまだに大きな希望はないが、ここで毎週noteを書くと決めてそれを守れていることは小さな希望と幸福である。インターネットの片隅で書く日記にどれだけの意味があるのかと笑われるだろうが、これは私にとっての幸福だから、他の誰に分かってもらえなくても良いのである。

Big Love…