冒頭で忙しいって書くのをやめたい

年度末なので忙しい…という書き出しにしようと思ったのだが、ここ最近のnoteを見返していたらほぼ毎週のように冒頭で忙しい忙しいと愚痴を言っていたので流石に恥ずかしくなった。

それにしても忙しい。年度末の異動と子供の進級が重なって、にっちもさっちも行かなくなっている。あまり物を書く時間が取れないので、今週は最近の生活を率直に書いてみようと思う。そういう回もある。

Picture Thisというアプリを今更ダウンロードした。

花の写真を撮って読み込ませると、画像を解析して名前や生育条件、有毒性などを教えてくれる。体感としてはTwitterで流行してから既に1年くらいが経過している。流行していた時は、植物にそんなに興味ないしな…とスルーしていたのだが、最近3歳児が花に興味を持ち始めたのをきっかけに、この週末にダウンロードした。

幼児と丸一日一緒に過ごす際、時間を持て余すのがとにかくしんどい。共通の話題もないし興味の対象も違いすぎるから、基本的に大人側がリードして楽しませ続ける必要がある。が、幼児の集中力は基本的に30分も持たない。買っておいたドリルも絵本もパズルも大体30分も経てば投げられる。

家の中での遊びに飽きたら、とにかく散歩である。しかし、幼児との散歩は基本的に強烈につまらない。単に家の中に飽きたからという理由で外に出るせいで明確な目的もなく漫然としているし、会話も弾まない(私はいまだに幼児と何を話せば良いのか分からない)。

そこでPicture Thisである。幼児には、道端で花を見つけたら教えてね!と伝えておく。すると、道端に生えた細々とした花を指さして一生懸命教えてくれる。幼児はいつも基本的に大人に命令されてばかりである。早く着替えなさい。お行儀良く食べなさい。静かにしなさい。そんな感じなので、幼児は大人に何かを教えたくてたまらない。私がぼんやり歩いていると、ママ!お花あるよ!とすぐに教えてくれる。周囲の安全を確認しながら写真を撮り、せっせと名前を調べる。ホトケノザ、ユキヤナギ、パンジー、花韮、沈丁花。植物の名前が分かるのって、何とも言えず嬉しい。

画像1
撮った写真と花の情報が確認できるようになっている 自分なりの植物図鑑が作成できて楽しい

不思議なことに、一度名前を覚えると、ぼんやり歩いていても視界に花が飛び込んでくる。毎日歩いていたはずなのに、こんなところにユキヤナギが生えていたのか〜!と感心したりする。知識が増えると見える景色が変わる。花咲く春にダウンロードしたので、しばらく楽しめそうである。

3月は別れの季節でもある。
娘が通っていた保育園でも、担任の先生が一身上の都合で退職することになった。最終出勤日に娘を迎えに行くと、わざわざ挨拶に来てくださった。お世話になりましたとかお疲れ様でしたとか、そういう簡単な言葉を交わして大人同士の会話はそれで終わったのだが、娘がなかなか先生から離れなかった。まだ3歳で、お別れの意味は今ひとつ分かっていないものの、別れに伴う寂しい雰囲気は理解できるようで、だらだらと関係ない話(今日のお遊戯楽しかったね、とか、折り紙またしようね、とか)を続けて3歳児なりに別れを惜しんでいた。

帰り道で普段なら家までスタスタ歩く娘が、泣いて全くこちらの言うことを聞かず、結局15kgの身体と年度末の多い荷物を私が全て抱えてヒイヒイ言いながら家まで帰る羽目になった。帰宅後も風呂に入らないと騒ぐわ夕飯前におやつを寄越せと騒ぐわで一悶着あった。別れに伴う寂しさを言語化も理解もできていないから、”なんとなく嫌だ!”が猛威をふるって3歳児なりのワガママが炸裂している感じだった。早く何が起きているか理解できるようになればいいね。何が嫌だったのか、言葉にできるようになるといいね。そうすればきっと、随分楽になる。その晩の娘は随分早く眠った。3歳児なりに社会に出て、処理しきれない出来事に立ち向かっているんだなあと思った。

この後に続く文章を何通りか打ったのだが、どれも今ひとつ納得いかない出来で、結局全てのパターンを消して今、白紙の画面に向き合っている。そもそも現在時刻は更新日当日の午後10時前で、最早これまで…という気持ちである。毎週更新を始めてから恐らく4ヶ月くらいが経過したのだが、今週のスケジュールが一番タイトだった。
今後も同じようなことが起きるだろうから、文章の作り置きのようなことをすべきなんだろうが、今のところ更新は毎週自転車操業である。4月以降はもう少し時間ができるはず…本もたくさん読みたいし、毎週更新しているnoteも、もっと面白いことを書けるようになりたい(いつも読んでくださっている方々、ありがとうございます)。

それにしても、今月は哲学の本ばかり読んでいた。読んだ本の中に、以下のような文章があった。引用する。

他の人にも意味のあることを言おうとすると、ついつい思想を作ってしまいがちになるからな。
(中略)
みんなに、こう考えよう、こうしよう、と呼びかけるようなタイプの言説を、ぼくはけっして哲学とはみなさない。人々に正しい生き方を教えるもの、といったような哲学観を、ぼくはけっして認めない。

永井均 <子ども>のための哲学 より引用

この一節はかなり良かった。インターネットを見ていると(見なければ良いのだが)、ひとそれぞれが思う”正しい思想”で溢れかえっている。どの思想も少しずつ間違っていて、少しずつ正しい。
一方、哲学は思想とは違い、自分自身で立てた切実な問いに対して答えを出そうと努める過程そのものが哲学なのだそうだ。思想に比べて、哲学はかなり孤独な試みだ。自分の問いに誰も共感してくれずとも良く、他人と正しさを戦わせる必要もない。

正しさ同士の戦いから距離を置いても良いんだなあと思ったことで、私はかなり気が楽になった。しばらくは哲学の本を集中して読んでいこうと思っているが、哲学と一言で言ってもその方向性にはかなり幅があり(なんせ、各々が自分自身で立てた自分だけの問いに向き合っているためそうなる)、好みの哲学者を探す楽しみが、まだしばらくは続きそうである。

Big Love…