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ひと一人分の存在感だけ欲しい時もある

3連休が終わった!!!仕事と育児しかしなかったな…。

こんばんは、日曜日の更新です。

3連休、本当にどこにも遊びに行かなかったし、楽しい予定といえばスプラトゥーン3のフェスくらいしかなかった。3歳児と2人、自宅でひたすら絵本を読んだりドリルを解いたりする日々…合間で仕事をこなす感じだった。

子どもと一緒にいるときにあまり長時間テレビをつけておきたくないが、しかし、ずっと音楽だけを流しておくのも味気なく、最近はradikoでラジオを流している。

3歳児はなんとなく話が通じるようにはなってきたものの、まだまだ会話の匙加減や心の機微というものを理解してはいないので、丸一日2人きりでいると気が狂いそうになる。
ひと一人分の存在感が欲しくて、ラジオのスイッチを入れる。ラジオのパーソナリティーは大抵全く関心の持てないようなことを話しており、自分の好みでフォローしているYoutubeのチャンネルを視聴するときとは全く心持ちが違う。
Youtubeを視聴するときは全神経を傾けて聞いているが、ラジオはほぼ環境音楽のような感覚で、内容も聞いているような聞いていないような、曖昧な態度でなんとなく流しておくことが多い。

なんとなく、レンタルなんもしない人のことを思い出す。ひと一人分の存在感だけが欲しい時がある。
私が見ている世界は私だけのもので、同時代に生きている人、もっと極端なことを言えば、家族として同じ屋根の下に暮らしている人にとってすら、見ている世界は全く別物である。
共感とか愛とかは確かにあるんだろうけど、それはお互いの抱える世界が重なる僅かな部分だけで分かり合ったつもりになっているだけで、重なり合わない残りの部分は、一緒に暮らしていても生涯謎のままなんだろうなと思ったりする。
普通、他人が近づいてくるとほぼ重なり合わない世界の擦り合わせをすることになる。思ってもないような社交辞令でジャブを打ち合い、お互いの価値を測りあって”関係性”が落ち着くべきところに落ち着いていく。
そういうのをやりたくはなくて、でも他人の存在感だけが欲しい時がある。私は1人が好きな人間だから、子どもを育て始めてからその感覚を初めて知った。なんでもかんでも1人でやりたがる人間だったから、その場にいるだけの人間の気配、ひと一人分の存在感の必要性って子どもを育てなければ分からなかったかも、と思う。
たまに母が私の家に遊びにくる。家事をやってくれたり、子どもの相手をしてくれたりするのももちろんありがたいのだけれど、何より、話の通じる人間が同じ空間に存在するということがありがたかったりする。
実際に大したことは話さない。母は決まって最近使い始めたコスメの話とか、習い事の愚痴とか、本当にどうでも良い話だけして帰っていく。私も特に母に育児の愚痴をこぼすことはない。それでも、同じ空間に、ただいてくれるだけ、それだけで良いのだった。

他にもいろいろ書きたいことはあるのだけれど、1000字くらい書いて消してしまった。気持ちが重すぎるとうまく書けない。自分の感情に対してなんらかの結論が出ていないと、出口の見えない感情の羅列になってしまって、何が言いたいのか分からなかったりあまりに露悪的だったりして、アップロードに至らずにいる。

3連休でひとり過ごした時間がほぼなく、こういう日が続くと自分自身の輪郭がはっきりしなくなる。私自身の本来の輪郭が社会で果たすべき役割などでコーティングされて、自分の手触りがよく分からなくなる。
母親だったり主治医だったりいろいろな役割をやって、それらしいロールプレイングをするのは他でもない私自身が望んでやっていることではあるけれど、本当に私がやりたいのは本を読んだりして”人生って一体なんなの?”みたいな30代半ばの人間が抱えるにはナイーブすぎる問いの答えを探すことなのだった。

こういう時に答えを探して誰かと話そうと思ったことがないな。私個人が悩みを抱えた状態で誰かと会うと、気遣われるとかそういうアクションが発生するけれど、本を読んでいる分には私が勝手に相手の書いたことを覗いているだけなので、そういう心配がない。ひと一人分の存在感だけが欲しかったり、ひとが考えていることだけを知りたかったり、私には生々しい付き合いを忌避する性質がある。みんな心の底では本当はそうなんだろうと思っていたけれど、どうやらそうでもないらしいということを、30代半ばにして今更学習したりしている。

Big Love…