歩けメロス 序

 メロスは激怒した。必ず彼の邪知暴虐の医師を除かねばならぬと決意した。メロスには医学が分からぬ。メロスは、町のデブオタである。ツイを書き、著名人を煽って暮らしてきた。けれども検診結果については、人一倍鈍感であった。
 きょう未明、メロスは朝飯を抜き、JRとバスを乗り継ぎ、30分ほどかけてこのシラクス病院にやってきた。メロスには父も母もない。女房もない。妹も別居し中年の一人暮らしだ。ただ職はある。それ故に数年に一度はこの人間ドックというものを受けるよう職場から強いられるのだ。先ず受付を済ませ、検診開始まで待合室でぼーっとしていた。そこに竹馬の友が来た。セリヌンティウスである。今は此のシラクス病院で、検査技師をしている。
「久しぶりだな」
「ああ。メロスよ、暫く会わぬうちにまた丸くなってないか」
 のんきなメロスも、この言葉には少し不安になってきた。一体自分の体格に何があったのか、二年前にこの病院に来たときは何も無かったはずだが。メロスは両手でセリヌンティウスの肩をゆすって質問を重ねた。
「腹囲は、人を殺すぞ」
「どう殺すのだ」
「腹囲そのものが殺すのではない。代謝の異常が、腹回りに表れるのだ。自分の腹を省みたことは無いのか」
「ないな。たくさんの人を殺すのか」
「ああ。脂質代謝異常は高血圧や動脈硬化を引き起こし、脳梗塞や血管破裂の危険因子となる。お前の父君もお袋さんもそうして死んだだろう」
「驚いた。腹ごときでそこまで言うとは、医者は乱心か」
「乱心ではない。人々の健康を心配するのだ。このごろは、国も40歳を超える者には腹囲を測れと推奨している。これを蔑ろにした中年男が、この間も大動脈乖離で救急病棟に担ぎ込まれたよ。手遅れだったが」
 聞いて、メロスは激怒した。
「検査をせぬうちから人を病人と決めつける。俺は帰る」
 メロスは単純な男であった。顔を赤くして席を立とうとしたメロスをセリヌンティウスともう一人の事務員が押さえつけた。
「御代は会社から貰っている。理由なく検診を拒めば、職務命令違反だ。最悪職が無くなるぞ」
 しぶしぶメロスは検査を受けた。血圧を測られ、血と尿を取られ、眼に空気を吹き付けられ、不味い液体を飲まされ天地を返されるような目にもあった。 調べられて、メロスの体内からは確かに数多の異常が現れたので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、医師の前に引き出された。
「血圧の下が100超え、上が160。明らかに高血圧。肝エコーで脂肪肝を認める。腹囲も100をゆうに超え、完全にメタボ。血液分析の結果はまだだが、この検査結果で何を健康と言うか!」
 医師ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「俺を暴君の手から救うのだ」
とメロスは悪びれずに答えた。
「お前がか?」
 医師は憐笑した。
「仕方のない奴じゃ。わしには、お前の愚かさが分からぬ」
「言い方!」
とメロスは、いきり立って反駁した。
「人の賢愚を決めつけるのは、医師の思い上がりだ。医師は必要の無い高血圧すら投薬しようとする」
「患者に嫌われようとも適正な医療を施すのが、医師の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、お前たちだ。人の心は、あてにならない。人間は、元々愚かさの塊さ。一々わしらを好いてくれずともよい」
 医者は落ち着いて呟き、ほっと溜息をついた。
「ただ、お前の生活は改善すべきだ」
「何の為の生活改善か。自分の保健医療収入を守るためか」
 こんどはメロスが嘲笑した。
「医療につながる気のない者に投薬して、何が医療か」
「だまれ、愚か者」
 医師は、さっと顔を挙げて報いた。
「何の週刊誌を見たか知らぬが、標準医療を避けろというライターを信じてはならぬのだ。お前だって、いまに、脳梗塞からの半身付随や肝不全からの全身症状に苦しむようになってから、泣いて悔いても遅いのだぞ」
「ああ、医師は利口だ。自惚れておるがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟でおるのに」
「皆口先ではそう言うのだ」
「ただ――ただ、妹が三ヶ月後に結婚するのです。三ヶ月の命はありましょう。妹の結婚式が終われば、俺の身体などどうでもいい」
「ばかな。だったら尚更今すぐ生活を改善せねばなるまい」
「この病院に、セリヌンティウスという技師がおります。私の無二の友人だ。私の代わりにその者を生活改善させてください」
「セリヌンティウスをこれ以上痩せさせてどうする!」
 医師はしわがれた声で低く笑った。セリヌンティウスは寧ろ痩せ過ぎの部類だ。あれはあれで別方向の――栄養面での生活改善は必要だろうが、少なくともメロスに必要なそれとは全く異なるものであった。
「俺が逃げてしまって、三月後の診療時間まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を生活改善してやってください。たのむ、そうして下さい」
 それを聞いて医師は、残虐な気持で、そっと妄想した。
『生意気なことを言うわい。どうせ再来院もすっぽかすにきまっている。このクレーマーの口車に乗せられた体で、放置してやるのも面白い。患者は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、友が死んだと愕然とするセリヌンティウスに高たんぱく食を処方してやるのだ。世の中の、似非医療家とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ』
 しかしそれは医療倫理的にあんまりであるから、口には出さない。代わりにこう言った。
「きっかり三ヶ月後には、診療時間内までに再来院しろ。その日まで、お前は毎日毎朝ウォーキングをするのだ。ここにGPS追跡機能付きのスマートバンドがある。特に貸してやるから、お前のスマホと連携させるがよい」
「はは、何をおっしゃる」
「いいから今ここで、目の前でやれ」
 医師は例の冷たい目でメロスをにらみつけたので、メロスはしぶしぶ自分のスマートフォンを懐から出し、スマートバンドと連携させ、求められるままにアプリケーションを設定した。
「このアプリで管理した歩数は、我らが病院で追跡できるようになっておる。一日でもサボれば、セリヌンティウスからお前に電話をかけさせるぞ。すっぽかしてしまうがよい。わしはともかく、セリヌンティウスは、さぞお前の命を心配するだろうな。お前の心はともかく、セリヌンティウスの心はわかっておるぞ」
 メロスは口惜しく、地団駄踏んだ。確かにセリヌンティウスは今朝と同じように俺の身を心配するであろう、と知るからだ。ものも言いたくなくなった。
 竹馬の友、セリヌンティウスは、そのまま診察室に召された。『メロスを三ヶ月の間ウォーキングの運動療法に処する。メロスがサボるようならば病院で把握できるので、お前も気をつけてやってほしい』と、医師に言い渡された。セリヌンティウスは無言でうなずき、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間はそれでよかったのだが、メロスとしては内心不承不承ではあった。


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