春雨に溶ける心もあるか

今年初めて見る桜は道端に落ちる汚れた花びらだった。
私が知らぬ間に春が終わってしまったのかと焦ったが、辺りを見回したらまだ桜は咲いていて安堵した。

この季節は少し冷たい風とようよう暖かくなりける陽がぼんやりと辺りを包み込んでいて、まるで夢で思い出の風景を見ているような感覚を覚える。

この曖昧な温度感は何かに似ているなと少し考えてみたら、美術館の空気に似ている気がする。
美術館は作品を劣化から守るために年中室温を同じくらいに保っていると聞いた事がある。
思えば春の夕暮れ時が過ぎて夜が始まるあの時間帯の静けさもどこか美術館と似ている。

私は物事の移り変わりというのが苦手なので、美術館の不変性に安心感を覚える。
春が好きなのもその感覚と無意識に重ね合わせているのかもしれない。

とは言え当たり前だが現実では何もかも変わりゆくものだ。
私も随分と停滞の中に居座っている気がするが、無常を楽しむくらいの心の余裕を持ちたい。

そろそろ沈丁花の香りが漂う頃だろうか?
暫くあの匂いに触れていないような気がする。
私は小学生の頃保健委員だったのだが、怪我をした人が来た時には大体イソジンと希釈したオキシドールで処置をしていた。
沈丁花の香りはあの希釈したオキシドール消毒液の香りと似ている…と個人的には思う。
あの香りを探しに行くのも楽しそうだ。

こうやって何かを書いたりするのも日常の些細な出来事から生じた感覚から始まる事も多い。
頭の中に散らばるものを文章にしてまとめるにしても、やはり体験ありきなのかなと思う。

今年もまた春が来て、色んな事が始まっていく。
季節は誰を待つ事もなく変わりゆき、また冬が来てその先にまた春が来る。
道に散らばる桜の花びらを踏みしめて、あちらこちらと歩いてみるのも悪くないかもしれない。