惜別

私はあまり家族という枠組みそのものを好んでおらず、彼ら彼女ら個々人の好き嫌いはともかくなんとなく顔を合わせる気にならなかった。

そんな中で家族の飼っている犬が高齢で、今年もつか否かといった状態だと連絡が入った。

飼い犬が亡くなるかもしれないともなると普段顔を出さない私も流石に悩んだ。
最後に会ったのはいつの事だっただろうか?
今行かねば生きているうちに会うことはできないのかもしれない。

散々悩んだ挙げ句、私は会いに行くのをやめた。

恐らく私は飼い犬が生きている間に会う事はもうないのだと思う。
しかし今行けば「これが最後に会う機会なのだろう」と、そう感じてしまうであろう事が恐ろしく、またそれ自体が飼い犬の死を決定づけるような気すらしていた。

以前遠方に住む祖母に会いに行った時の事を思い出す。
その時の祖母は健康そのものであったが、高齢なので次会う機会があるのかは分からなかった。
しかし私はそれが最後の機会なのだろうなと思い、実際に再会する事はないまま数年後に祖母は亡くなった。

最後に会ったその時から死ぬまでの間、祖母は確かに生きていた。
会いに行こうと思えばいくらでも機会はあったはずだが、私はそれをしなかった。
私が何度訪ねようともどれかが最後の機会になる事は変わりなく、できるだけ死に近い最後の機会を作ることに意味があるとは思えなかったからだ。

最後に会ったのがいつなのか分からない、当たり前に繰り返してきた一時の別れのどれかが最後になる方がよっぽど良いのだと思った。
それが一番自然で、一番傷つかないのだから。

飼い犬の鳴き声を思い出す。
嬉しそうにご飯を食べる姿、一緒に散歩に出かけ走った事、口にしてはいけないものを咥えているところを引き離そうとして噛まれた事。
あの時の傷はまだ手に残っているんだろうか。

私は死を恐ろしいとは思わない。
ただそれに伴う別れが寂しかった。