Vol.30 とり煮込みそばとカレーライス

Mar. 2012

 私のように、就職する道を選ばず自分でどうにかする道を選んだ者にとって、人との出会いほど恐ろしく重要なものはない。

 思えば人生を左右するといっても過言ではなかった。今回はギョーカイ(この話では音楽業界)に入りたての頃に出会った人達の話をしたい。

 いわゆるギョーカイというところの入り口にはいろいろある。
正面玄関を叩いてレコード会社や芸能プロダクションに就職する人もいれば、私のような実演家の場合は、なんとなくギョーカイの輪の中に入れてしまうこともある。

 そもそもは、高校を卒業する頃によく出入りしていたライブハウスの副店長的なポジションの男に、あるアーティストのバックバンドとして演奏をする仕事を紹介されたのが入り口だった。
きっかけを作ってくれた副店長的な男(プロギタリストを目指していたようなのだが、風の便りでは「田舎に帰った」という残念なお知らせをのちに聞いた)の名はすでに忘却の彼方へいってしまったが、しばらくそんな仕事を続けていたら、某ツッパリハイスクールロケンロールな4人組をマネジメントしているプロダクションのナンバー2の方から

「メシでも行こうや」

と誘われた。
 ときに時代はバブル全盛。
彼は五十代半ばで、肩からセーター、小脇にルイ・ヴィトンのセカンドバッグ、レイバンのサングラスをかけてベンツの560 SELに乗っているという、今思えばコント赤信号みたいなスタイルではあるものの、当時のギョーカイ人としては、これが標準装備だった。

 ベンツに乗って六本木の麻布警察横にあった「香妃園」という中華料理店に連れて行ってもらった。
その方は店に入るなり発売されたばかりの、まるでモアイ像のようなドデカい携帯電話をテーブルにドンと垂直に置き、

「ねぇちゃん、そば二人前な。それとカレーライスや」

と注文。
その店は「特製とり煮込みそば」というのが名物らしく、

「ここのそば食ったことあるか?」

と尋ねられたが、私が応える間もなく、次の瞬間にはもう話題がギョーカイよもやま話に移っており、会話の成立なぞさして意味はないんだなと悟った。
「◯◯プロダクションは××にいたヤツがタレントをそそのかして独立したところから始まったんだ」とか、「あいつのアコギ(アコースティック・ギター)の音は最高なんだけど、もう時代じゃない」だとか、それはそれはマクロな話からミクロな話までを恐ろしいほどのマシンガントークでしゃべり倒しながら、しかしなおテーブルの横を通ったウェイトレスに

「ねぇちゃん、シーハーくれや、シーハー。あ、宮っちゃん、今回のギャラな、ツェーマンでええな? 並びで請求書、送っといてな」

といかにもギョーカイ人丸出しの逆さ言葉で私を一気にゴールまで連れ去った。仏恥義理だ。
もはや私の関心はギャラの金額なんかよりもテーブルの上に鎮座するモアイと目の前のギョーカイ人の衝撃に完全に持っていかれていた。

 食事が終わると彼はルイ・ヴィトンのセカンドバッグの中に入っている帯のついたままの札束から1万円札を取り出し、

「勘定な!ツリいらんわ」

とレジカウンターの上に置いて店を出て、六本木通りを西麻布方向に歩き出した。そして「ほんなら、ご苦労さん。タクシーで帰るやろ?」そういって再びセカンドバッグの中から適当に紙幣を取り出し、

「これで帰り、またよろしくな!」

と私に手渡した。渡された手の中には十数万円があった。
わかるだろうか、先ほど仕事のギャラが「ツェーマン」すなわちギョーカイ用語で1万円である。
いまメシ食って、その帰りのタクシー代として貰ったのが十数万円である。そしてこっちは請求書も領収書もいらないお金。
ないはずのお金が、急に私のポケットの中に入ってきたのだ。

 あの時代の東京ではこんな話が日常茶飯事に聞こえていたので、よくいわれる「バブル時代のカネはどこに行ったんでしょうね?」なんていうクエスチョンの答えは、これの積み重ねで消えていったとのだと思う。
事実、私もその金でタクシーで帰り、翌日には美味いものを食べようと老舗の鉄板焼屋で5万円もするステーキを貪り、残りはクラブに遊びに行ってすべて消費してしまった。
このとき私はまだ二十歳そこそこである。

 話は脱線したが、彼との2時間はたわいない会話だったものの、ギョーカイのルールや仕組みを知り得ることはできた。
これがきっかけでその後も付き合いは続き、テレビ局やレコード会社の偉い人達を紹介してくれたりと、私が今後ギョーカイで仕事をしていくうえで重要となるだろう人脈形成の基礎を構築してくれた。
と同時に、人の付き合い方や礼儀なども叩き込まれた。
ある意味、社会人として重要な時期の教育係を担ってくれた恩人だと思っている。

 しかし、ギョーカイとは恐ろしい面もあり、つながっていった人々の中には彼のことをよくいう人もいれば、彼がいない場面で「あいつは面白いが、いいかげんなヤツだ、気をつけろ」だとか「あいつのやり方を真似していたら、あいつより上には行けないぞ」という人もいた。

 いろんな人々の野望や妬みが蠢くギョーカイに恐ろしさを感じる半面、自分で仕事をして生きていく心得ができた時期でもあった。
私は就活をしたことも無ければ、企業に就職したこともない。
でも、幸いなことに私が飛び込んだギョーカイには、こうして教育してくれる大人達が大勢いてくれて、今となっては選んだ入り口は正解だったと思っている。
その時に食べた

特製とり煮込みそばとカレーライスの味

は今でも忘れられないし、私は見込みがありそうな若者に出会うと、あの時に私がそうしてもらったように、その店で一緒に食事をしながら話をするようにしている。


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