いい意味で
私がハタチそこそこで業界(芸能関係)に足を踏み入れたときに、いわゆる業界用語というのを巧みに操る人々に圧倒されたのを覚えている。
お金の数え方から目の前の出来事の表現まで、それまで耳にしたことがない言葉を淀みなくスラスラと話す様には「ザッツ・芸能界」を実感したものだ。
そんな若かりし頃のこと。ある番組の企画会議でアイデア出しをしていたら、私の企画を聞いていた制作会社の偉い人に
「それ、すっげーくだらないよね、いい意味で」
といわれた。経験の浅い私にとってすっげーくだらないとは言葉そのままの意味にとれ、企画はボツなんだと思ったわけだが、でもなんだか悪い気がしないというモヤモヤした気持ちになった。
反芻すると、まず企画を否定され、間髪入れずにいわれた「いい意味で」が原因であるという答えに辿り着いた。ちなみに、業界では「くだらない」が最高ランクの褒め言葉であることをその後に知った。
この「いい意味で」は、通用するケースと、しないケースがある。
例えば、奥さんが作った謎の料理を食べて
「これ、なんて料理? 変わった味だね、いい意味で」
といえば、どこかフワッとする。
また、仕事帰りに仲間内で座敷の居酒屋に行って、とんでもなく足の臭い奴がいたときに、
「おまえの足さ、臭いよな、いい意味で」
といったらどうだろうか。
おそらくその場に居合わせた人は、彼は一日中営業で汗だくになって家族を幸せにするために歩き回ったんだな、と受け止め、噛みしめるほどに奥の深い言葉になる、はずだ。
しかし、魔法が通用しないケースもある。
特に、何か悪いことをしてしまって謝罪の言葉を述べるときなどはやめたほうがいい。
「心より深くお詫び申し上げます、いい意味で」
こうなると、いくら平身低頭に謝罪したとしても、この一言で台無しになってしまうし、謝られた相手も確実にイラッとくる。
また、友人の子どもを褒めるときにも注意が必要だ。
「◯◯ちゃんは本当に賢いわね、いい意味で」
これも最後の一言が余計だ。
何か含みを持っている気がしてしまうし、本心は違うだろ、このヤロウ! と思われても仕方がない。
このように使い方を間違うととんでもない事態を引き起こす言葉でもある。
「いい意味で」はその前に何をいおうがなんとなく許されてしまう魔法の言葉であるがゆえに、正しい使い方を本連載で充分に理解することをオススメしたい。
と、前置きはこれぐらいにして今回のお題(問題)に移る。
弊社オフィスのカフェ「涎屋」で、シェフが一所懸命5日間も煮込んで作っているハヤシライスである。
「何かが足りないんだよね、いい意味で」
5日間も煮込んでガス代もたっぷり使っているというのに、何か足りない感じがするのはどういうつもりなのか。
とはいうものの、基本的には美味しいので頭ごなしに文句をいうわけにもいかない。だからこういう場合に「いい意味で」はとても便利だ。
いわれたら本人は、美味いといわれているのか、それともダメ出しされているのかと自問自答するだろう。
しかも「いい意味で」とはどういう意味なのかと。
料理のプロではない私が、ただ、感覚的にあと一歩何かが足りないと感じたのでつい口走ってしまった一言だが、それからというもの、シェフは試行錯誤を繰り返し、ガス代を使いまくりながらさらなる高みを目指し、凄まじい情熱をハヤシライスに注ぐ日々を続けた。
かつてこんなにハヤシライスに打ち込んだ青年を見たこともなければ、こんなに毎日試食でハヤシライスを食わされたこともない。
最後のほうはもう、あのときに何が足りないと思ったんだかわからなくなり、余計なことをいわなければよかったと後悔した。
こうした末に涎屋のハヤシライスが出来上がった。コンセプトは、
「何か一言、いいたくなるハヤシライス」
おかげさまで評判も上々で、食べに来てくださったお客様は必ずといってよいほど「美味しい。あと、ここがこうなるともっと好きです」的なコメントを残してくれる。
ハヤシはお客様とのコミュニケーションの役割も果たす
金沢にお越しの際はぜひご賞味いただきたい。
シェフの腕が大したことなくて本当によかったと思う。
いい意味で。
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