作品への批判は悪質クレームでも他人の趣味の否定でもない、という話

Twitterにおいては、アニメやゲームといった作品のストーリーが一定の頻度でプチ炎上し、その度にストーリーの肯定派と否定派との間でバトルが勃発する、という現象が至るところで起こっている。この現象は筆者が日々触れているコンテンツに限らず、様々な作品についても言えることではあるだろうが、とりわけ筆者の触れている某作品ではそのような現象が起こる場合がかなり多く見受けられるように思う。なぜその作品に限ってそんな現象が頻発してしまうのかは、1年前にブログのほうに書いたことでもあるので今回は触れないが、そういった現象が生じた際に、否定派がネットに書き込んだ批判や不満に対して向けられる肯定派からの攻撃が限度を超えているのではないか?と思うことが最近特に増えてきた。

そのため本稿では、作品に不満を持った消費者が批判や不満を公然と口にし、作品の公式(運営)や他のファンにその主張を訴えかけることが至って正当な行為であることを改めて確認しておきたいと考えている。なぜ「改めて」なのかといえば、こうした批判行為が正当であることはそもそもあまりにも当たり前の話であって、本来であればこんな記事をしたためる必要すらないほど当然の話でしかないはずなのだが、その認識すら怪しい人々が目につくようになってきたこともあり、この機会に「改めて」言語化しておく意義はあるだろうと感じたからである。

作品への批判・不満を口にする人は「楽しんで」いないのか

まず、作品のファンが、その作品に対して公然と批判や不満を口にするという行為が何を意味するのか、ということから確認しておきたい。Twitterのオタク界隈において時折なされる主張として、「作品を楽しんで鑑賞しているからこそファンなのであり、ファンが批判や不満を口に出しながら鑑賞するのは歪んだ楽しみ方だ」というものがある。たしかに、一見すると至って真っ当な見解であるように思われる。しかし、そもそも作品を「楽しむ」とはどういうことなのだろうか。

気になった描写やモヤッとした部分をあまり深く考えずに、感動した箇所があればそれだけで満足、というのも当然ながら一つの楽しみ方ではあるだろう。だが、エンターテインメントが飽和状態と言えるほどにまで溢れている昨今の世の中で、ある作品のファンがその作品を深く愛するということは、実のところそんなに簡単なことではない。その作品にしかない宝物のような魅力というものをファンが見出せず、漫然と「エモい」と呟きながら作品を消費しているだけでは、突如流行し始めた新規コンテンツのほうに心を奪われ、それまで楽しんでいた作品から離れるという事態はきわめて容易に生じてしまう。そんな中で一つの作品を長らく愛するためにはやはり、それぞれのファンが、その作品にしかない魅力とは何かを吟味し発見していく過程というものがどうしても必要になるのではないかと思う。したがって、流行の盛衰が著しく加速し、人々の趣味も著しく多様化している現代において一つの作品を長らく追い続けるには、この作品はこうあるべき、というようなある種の信念のようなものが多少は必要になってくると思われてならないのである。

繰り返しになるが、流行を追いかけながら様々な作品を浅く広く消費する、というスタイルも当然立派な楽しみ方であることに疑いはない。エンターテインメントというのは狭く深く追うべきなのだという風潮が世間を支配してしまったら、それはそれで未知の作品に気軽に触れにくい空気感が醸成され、大変ギスギスした世の中になってしまうことだろう。とはいえ、狭く深く追うというのもまた立派な楽しみ方なのであって、そういう楽しみ方を選択する以上は、ファンそれぞれが作品に対して信念を持つということはある程度は避けがたいのではないかと思われるのだ。

例えば、フランス料理が好きな人がフランス料理店にやって来てフランス料理を食べているとしよう。ところが、食べている途中にいきなり中華料理が出てきたとしたら、その人は当然ながら文句を言うだろう。なぜなら、その人はフランス料理の魅力とはこのようなものであり、フランス料理はかくあるべしという「信念」を持っているのであって、それとは全く違う種類の料理が(フランス料理と称されながら)出てきたら強い違和感を持つのは当たり前のことだからである。これに対し、料理の種類などにあまりこだわりがなく、とにかく美味しいものが食べられれば何でもいいか、と気楽に考えている人にとっては、全く違う種類の料理が運ばれてきたとしても大した問題ではないだろう。結局、何らかの「信念」を持っていようがいまいが、それぞれの流儀で食事を「楽しむ」ことはできるというわけだ。

だいぶ話が回り道になってしまったが、先ほども述べた「作品を楽しんで鑑賞しているからこそファンなのであり、ファンが批判や不満を口に出しながら鑑賞するのは歪んだ楽しみ方だ」というありがちな主張は、むしろその主張のほうが歪んでいるということが今までの議論から見えてきた。すなわち、ファンが批判や不満を口にするのもそれ相応の理由があるのであり、それを無視して「こいつは不満を口にしていて作品を楽しんでいないのだから、ファンじゃなくてアンチなんだ!」と決めつける態度は、危険な傾向と言わなければならないというわけである。そしてそのような態度は、「何人たりとも、作品に対して何らの信念も持たずに臨機応変に楽しむことこそが唯一絶対の楽しみ方なのだ」という楽しみ方の押し付けに他ならないものでもあるのだ。

なお、これまで言及していた状況は、主にシリーズもののコンテンツにおいてファンが不満を抱えるという場合を想定したものであった。それでは、ある消費者が今まで全く触れたことのないコンテンツに初めて触れる場合にはどのようなことが言えるのだろうか。この場合、消費者はその作品に対してあらかじめ何らかの「信念」を抱えているわけではなく、例えばストーリーの上でどういう展開が来ようとも「とりあえずこの作品はそういうものなんだろう」という心構えを持ちながら鑑賞することになるだろう。したがって、フランス料理が出てくるのか中華料理が出てくるのかはっきりとは分からない状況でどんな料理が出てきても、料理の種類を理由として不満を抱くことはない、というのと同様に、作品に対する「信念」がきっかけとなって生じる違和感は存在するはずがない。しかし、料理がその人の口に合うか合わないかという問題は依然として残るのであって、この作品のこういう部分が自分の口に合わなかったと表明することはきわめて自然な行動と言えるだろう。

また、これも当たり前のことだが、どんな意見を表明するにしてもTPOやマナーを弁えて振る舞うことは重要なことである。我を忘れて熱く盛り上がるための場として想定・設計されているライブイベントの会場でブーイングをしたりする行為は、TPOを弁えた振る舞いとは言い難い。さらに作品のクリエイターに対する人格攻撃はマナー違反どころか、そもそも名誉毀損や侮辱といった刑法上の犯罪行為に該当する可能性もあり、もってのほかと言わなければならない。とはいえ、ある程度の自由な意見表明を行う場として想定されている場・状況においては、批判や不満の表明を「マナー違反」などと糾弾することは、それこそ「マナー違反」の行為に他ならないだろう。

さらに、批判や不満の表明それ自体が目的となっているような意見表明も、糾弾されても仕方ないところはあると思われる。最終的に作品というものは「鑑賞」を通して「楽しむ」ことを目的として作られているのであるから、批判や不満そのものが目的になっているような評論行為は、作品を「鑑賞」している真っ当なファンの意見表明ではなく、つまらないアンチの煽り行為だと唾棄されても仕方ないだろう。

不満を訴えることは悪質なクレームなのか

次に考えたいのは、「不満を持って口にすること自体は悪くないとしても、それに関して他のファンや運営に殊更に訴えかける行為は、その人個人の信念を他者や運営に押し付けることになる」という、これもまた非常にありがちな主張についてである。この主張に対しては様々な観点から反論が可能なのだが、まずは、そもそも前項において述べたことをよく考えれば導かれるはずのない主張だということを確認しておきたい。

すなわち、信念を持って作品を追い続けているファンたちにとって、その信念に思いきり抵触するような作品を運営側がリリースしてきた場合、運営がファンからの反発を受けるのは至極当たり前の結果であるということだ。フランス料理と称して中国料理を出してきた店に対し、客が「こんなのは注文していない」と抗議するのと同じである。癒し系の日常系アニメを応援して追っていた人が、その作品の続編と称してゾンビが出てくるスリラーアニメが放送され、ブチ切れたとしても何の不自然さもない。もちろん世の中には、ふつうの魔法少女アニメだと思って見ていたら第3話で魔法少女の首が食いちぎられるというTVアニメも存在している。だが、その作品は「もともとそういう演出をコンセプトのレベルで仕組むことを前提として制作された」ものであって、決して「作品の軸がブレている」わけではない。このあたりの相違は、くれぐれも混同しないようにしておきたい。

「不満を運営に訴えかける行為は悪質クレーム」論法に対して考えられる第二の反論は、法的な論点である。「悪質なクレームだ」とか「クリエイターに対する侮辱だ」とか、あたかも不満を訴える行為そのものを業務妨害や名誉毀損と同一視しているかのような言葉遣いをしている「ファン」を、SNS上ではよく目にする。だが、むしろこういう主張こそ悪質なクレームの名に値するのではないか、というのが私の考えだ。

上掲した記事は、作品やそのクリエイターに向けられる批判を法的な観点からどう捉えればよいのかについて、憲法学者の志田陽子氏が論じたものである。詳しい議論は記事を参照していただきたいのだが、本文中にある次の部分こそ、この問題を考える上での基本的な視座はどうあるべきかを明快に論述した箇所であると言える。

批判の自由は、民主主義を支えるものとして、また、学術・芸術の分野では人類の知的発展のプロセスをなすものとして、その「自由」の重要性が共有されてきた。社会告発的な芸術作品や、既存の価値観や美観に一石を投じる作品、ときに辛辣な批判も含む芸術批評は、切磋琢磨による知的発展のプロセスとして、その「自由」を確保しておくべきものである。こうした言論空間に質の悪いものがあった場合にも、それは受け手が取捨選択し淘汰していくか、それを不本意と感じた当人が対抗言論によって軌道修正していくべきもので、国などの公権力が介入することは極力避けることが求められる。

 まずはこれが「表現の自由」の原則である。ただし、次に見るように、名誉毀損や侮辱、プライバシー侵害など、他者の権利を侵害する表現は、事後的に、被害者の申し立てによって損害賠償や差止などの法的措置を受ける。芸術作品や芸術批評も、こうした権利侵害に問われたときには、法的責任を免れない。

作品も、そのクリエイターも、理不尽な批判に晒される時はある。特に現代のネット社会では、匿名であるのをいいことに便所の落書きレベルの主張を書きたい放題書いている者たちが猖獗を極めている。当然私も、様々な作品に向けられる様々な批判を見聞きする中で、理不尽だと感じたり失礼だと感じたりすることは多い。しかし、クリエイターの人格に明確に踏み込みその人格を貶めているような主張を除けば、たとえ辛辣な物言いであっても、あらゆる批判が「表現の自由」の原則による庇護の対象となるはずだ。この部分を根本的に勘違いして(あるいは見て見ぬふりをして)、批判を投げかける行為を名誉毀損や侮辱といった刑法犯とダイレクトに結びつけようとする珍説が、一部ファンの間で正論であるかのように罷り通っているのは異常なことである。

さらに、上のような批判行為は、一般的に言って業務妨害にも該当しない。自らの批判的主張を訴えかけるために運営の公式サイトにDDoS攻撃を仕掛けるとか、ライブイベントの会場で横断幕を掲げるとか、明らかに法律やルールに違反している場合ならそれは当然業務妨害として立件される可能性があるだろう。しかし、運営のTwitterアカウントにリプライや引用RTの形で批判的文言を投げかけた程度のことで、あたかも業務妨害であるかのように「悪質クレーム」呼ばわりするのは、それこそ「表現の自由」原則を根本的に無視した言論弾圧行為に他ならないと思う。

さて、この「批判の投擲は悪質クレーム」問題が法的な問題にすらならないということは以上に述べてきたことからご理解いただけたかと思うが、ついでに、なぜ(日本をはじめとした先進国の)現代社会ではこれが法的な問題にすらならないと見なされているかについて、少し補足しておこう。それは、上に挙げた記事の引用文にもあったとおり、「表現の自由」や「言論の自由」が現代社会の大原則として見なされているからであり、公共の福祉に反しない限りにおいてこの大原則は最大限守られるべき自由・民主主義社会の根幹をなしているからだ。このため、他人を攻撃するような辛辣な批判意見までもが、「言論の自由」原則によって正当化されることになる。言論の自由について述べた有名な古典である、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』には次のような記述がある。

意見の自由の問題を論じ終える前に、一言述べておいた方がよい点がある。あらゆる意見を自由に表明することは許容すべきだとしても、表明の仕方について節度を守り、公平な議論の限界を超えないことが条件だ、と論じる人についてである。そういう限界を決めるのが不可能なことは、力説してよいだろう。なぜなら、攻撃されている意見の持ち主の不快感を基準にすると、私の考えでは、次のことが経験的に明らかだからである。つまり、こうした不快感は、攻撃が説得的で強力な場合はつねに生じてくるし、押しが強くて反論するのが難しそうで、問題となっている点に強い感情を示している論者はすべて、反論しようとする側には、節度のない敵に見えてしまうのである。

ミル(著)、関口正司(訳)、『自由論』、岩波文庫、2020年、p.120–121。

もちろんミルは同時に、相手を中傷する行為を戒めてはいるのだが、それでも辛辣な言葉遣いを法的手段や権力によって規制することには慎重な態度を貫いている。近現代の社会において広く受容されている「言論の自由」というのは、まさしくこういうものだ。不当だと思った言論には言論をもって対抗するのが、この社会の基本的ルールである。運営のリプライ欄に寄せられた批判が不当だと思ったからと言って、軽々しくクレーマーだの何だのとレッテルを貼って言論弾圧に走る行為は慎むべきだ。

主観的な不満を訴えかけるのは他人の趣味の否定なのか

「運営や他のファンに、作品への批判や不満をぶつけようとするアンチがいるが、作品に対する感想なんて個人の主観に過ぎないのだから、その主観的な感想を運営や他人に訴えかけようとするなんて傲慢なことで、他人の趣味の否定だ」という主張がある。今までに見てきた「批判はファンの行為じゃない」論法や「批判は悪質クレーム」論法と同じくらいよく見る、言論封殺の常套手段である。この論法に対しては、「作品への賞賛だって主観的な感想なのであって、SNSなどで(運営や他のファンに対して)日常的に投げかけられているのだから、不満を投げるのが傲慢なら賞賛を投げるのも傲慢だろう」という反駁も、ある程度有効ではある。とはいえ、中には「賞賛を投げかけて同意を求めようとするのも傲慢だと思いますが何か?」と反発してくる人もいると思われる。そこで以下では、哲学の観点から言って、この論法が何の根拠も説得力もないということを説明していくことにする。

ある人がある作品を鑑賞したとき、(それが小説やアニメだったら)面白かったとかつまらなかったとか、(それが絵画や音楽だったら)美しかったとか美しくなかったとか、様々な評価を下すことになる。そのような美的な判断を趣味判断と呼ぶことにする。趣味判断は、もちろん主観的な判断である。ところが、趣味判断というものは、主観的な判断であるにも関わらず、自らの判断に関して他人に同意や共有を求めたりする欲求と本来的に密接不可分な判断であると考えられる。要するに美しいものを美しいと感じるのは、その美しいものの持つ価値を他人にも分かってほしい、分かってもらって然るべきだと直観するからこそ、美しいという趣味判断が生じるということだ。人間は、様々な事物の美醜を評価することを通して、他者との信頼関係、友人関係を築こうとする生き物である。もし趣味判断が、他人に同意を求める欲求とまったくの別ものであるとすれば、人間が信頼関係や友人関係を築くことはきわめて難しくなるであろう、ということは想像に難くない。したがって趣味判断は、他人に同意を(強制するのではなく)要請する権利を持つような判断だ、と言えるのではないだろうか。

さて実は、いま述べた内容は私が考えついたことではなく、史上最大の哲学者のひとりとも言われるイマヌエル・カントが『判断力批判』という著作の中で論じたことである(正確に言えば、カントが論じたことを私が自分なりの言葉で置き換え非常に簡潔にまとめたものである)。上の議論が雑、あるいはもっと考えてみたいと思った方は、『判断力批判』を読んでいただきたい。ともかくこのカントの議論は、美とは何かを検討する哲学(これを美学という)の歴史において重要な結節点となっており、美について論じようとする後世の哲学者たちによって参照され続けている。それは、カントが打ち立てた哲学が超越論的な視点に立ったうえで鋭い分析を実行しているから、とも言えると思われる。

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という有名なテーゼを発表し、この世界を徹底的に懐疑する態度を鮮明にして新たな哲学を構築した。ヒュームは、デカルトが確実視した自我を否定し、さらにこの世界にあまねく浸透しているはずの因果律さえも疑い抜く徹底した懐疑主義を通して、どんな人間も確実な知識を得ることはできないと主張した。このように、人間の理性の不確かさがあらわにされていったのが当時の時代状況だったわけだが、特にヒュームの業績を指して、カントは「独断論のまどろみを破る」ものであったと高く評価している。しかし同時に、カントはヒュームの行きすぎた懐疑主義に批判を加えているのである。

上に挙げた『判断力批判』の哲学も、結局は懐疑主義をある意味で克服しようとする超越論的哲学のモチベーションに裏づけられている。20世紀の哲学者ハンナ・アーレントは、趣味判断が本質的に他者への同意を要請する判断だというカントの議論を高く評価し、人間は趣味判断の能力を具えているからこそ政治的主体として社会に関わっていけると考えて新たな政治哲学を開拓した。趣味判断をおこなう人間の営みがあるからこそ政治的判断につなげることができ、共同体を形成することが可能になるというアーレントの哲学は、人間の趣味判断の他者要請性という性質をポジティブに捉えていく契機となるものであり、個人的に興味深く感じられる。

作品に対する批判や不満もまた趣味判断のひとつになるわけだが、そういった批判・不満を他人に投げかけるのが傲慢だと当然のように主張するファンは、まるでヒュームのような懐疑論者のように見える。懐疑主義者もまた、個々人の信念は徹底的に主観的にならざるを得ないのだから互いに真に分かり合えることはないと考え、人々が互いに信念をぶつけ合い意見を交わすことに冷笑的な視線を投げかける傾向にあるからだ。しかし徹底した懐疑主義のほかにも様々な哲学的立場は現れてきたのであって、まるで懐疑主義が万人の納得する当然の立場だとでも言わんばかりの「傲慢」な態度を、多少は改めたほうがよいのではないかと思う。とはいえ、繰り返しになるが、批判・不満を他人に投げかけるという範疇を逸脱して脅迫や中傷を含むようになれば、それはもちろん明確なルール違反になることは言うまでもないし、ファンたちは可能なかぎり理性的な議論を追求していくべきであるというのも言うまでもないことだ。

終わりに——なぜこんな風潮が蔓延しているのか

これまで、作品に対する批判・不満を運営や他人に投げかける行為が何ら問題のないことだということを、様々な観点から指摘してきた。こんなことは、noteで何千文字も書き連ねるまでもなく至極当たり前のことでしかないのだが、その当たり前のことをまったく当たり前だと見なさないような人々が目につくようになってきた。そのため私は、本稿を執筆して「当たり前のこと」を改めて言語化してみたわけである。それでは、そもそも作品への批判を封殺するようなファンが一部で発言力を持つようになってしまったのは何故なのだろうか。この疑問に答えて、本稿の議論を終えることにしたい。

先ほど、ヒュームの懐疑主義について述べた。そして、批判を封殺するファンの考え方が、頑迷な懐疑主義と似ているということを指摘した。ヒュームは18世紀の哲学者なので、18世紀の思想が直接的に現代日本社会に大きな影響を及ぼしているというわけではない。しかし、懐疑主義とよく似た思想が、20世紀後半から世界を席捲するようになり、その影響は日本にも及ぶこととなったのである。その思想は、ポストモダン思想と呼ばれている。

ポストモダン思想は、20世紀半ば以降、同時多発的に発生した思想の潮流である。その時代の様々な哲学者・思想家が、似たようなことを言い出したというわけだ。もちろん、人によって言っていることは多少異なってくるので、ポストモダン思想を明確に定義するのは困難だ。とはいえ、全体的な傾向としては、ヒュームとはやや方向性が異なりながらも懐疑主義的という点においてはおおむね共通している、と言うことができるだろう。

非常にざっくりと言えば、ポストモダン思想の思想家たちは、言語を徹底的に考察することで、我々が普段使っている言語が如何に脆くあやふやなものであるかを露呈させた。そしてその考察を通して、我々が普段当たり前のように行っている思考の枠組みが単なる幻想に過ぎないことを喝破し、人間は理性を用いることで進歩を重ねていけるのだという近代以降のリベラリズムを危機に陥れようとする。

ポストモダン思想が影響力を持った背景には様々な時代状況があるだろう。人間の理性など大して頼りにならないということが心理学によって明らかにされていったり、欧米中心主義的な価値観が人類学によって徹底的に相対化されたりと、多くの因子がポストモダン思想の隆盛を支えていたと思われる。また、20世紀という時代は、二度にわたる世界大戦や冷戦を経験した人類が、イデオロギー対立の虚しさを痛感した時代でもあった。社会主義による理想社会を夢見た若者たちが挫折していく様子は、わが国においても多くの人々が観察してきたし、イデオロギーや思想の違いでいがみ合うことの不毛さを印象づけた。特定のイデオロギーや思想的立場が、かつてほど魅力を持たなくなっていった時代だからこそ、ポストモダン思想は人口に膾炙していくことになったのである。

こうしたポストモダン的思想潮流のなかでオタク文化を捉えていこうという試みが、哲学者の東浩紀氏による『動物化するポストモダン』だった。この本は出版されてから20年以上もの歳月を閲しており、すでにオタク論の「古典」と呼ぶに相応しい重要文献となっている。本書には20年のあいだ様々な批判が投げかけられてきたが、イデオロギーや思想という「大きな物語」を信じられなくなったオタクたちがどのような嗜好を獲得していったかを探る議論には興味深いものがある。

そして私が思うに、ポストモダン的潮流の只中にいるオタクたちにとって、自分の意見を公の場ではっきりと主張する行為は、徐々にやりにくくなってきているのではないかと思われる。ポストモダン思想が蔓延していると評されていたゼロ年代のインターネットでさえ、オタクたちは掲示板などにおいて、自分たちの主張をぶつけあって熱心に議論を戦わせる様子が日常的に見られたものだった。ところが、それからおよそ20年も経った今となっては、(良いか悪いかはともかくとして)議論はTwitterが主戦場となって浅く簡素化し、濃密な議論が起こりづらくなっているように感じられる。この過程において、自分たちの信念を開示し、お互いにぶつけ合うという行為が、趣味として大して意味のないことであるかのように感じる人が多くなったのではないか。そういった雰囲気が極限まで進行した帰結として、作品への批判や不満を他人に向かって提示すること自体が、冷笑の的と化すようになったのではないか。粗雑な考察であることの自覚はあるが、私にはそのように思われてならないのである。

では、我々はポストモダン的な潮流に一切抗うことができず、言論封殺をしてくるファンが跋扈するのを止めようがないのだろうか。私はそこまで悲観的ではない。今までミルやカントといったリベラルな哲学者たちの議論を参照してきたことからも分かるように、リベラルな価値観を共有する多くのネットユーザーたちにとって、本稿で論じた内容はごく「当たり前」のこととして受け止められるに違いない。そういう理性的な人々の層はまだまだ分厚く、少なくとも近い将来においてネット空間が言論封殺者たちの手中に落ちるシナリオは考えづらいと思う。このことを如実に感じさせる出来事が、昨今のネット空間を最も賑わせているフェミニストとアンチ・フェミニストとの論争だ。

現在SNSで権勢を振るっているフェミニズムは、ポストモダン思想の影響を大きく受けていることが指摘されている。ある時期の人権活動家たちは、ポストモダン思想にありがちな懐疑主義的態度を現実の社会問題に応用することで、「すべての人の信念は主観的なものに過ぎず、権力を持つマジョリティが権力を持たないマイノリティの苦しみを理解することは到底できない。そのためマジョリティは意識的あるいは無意識的に、既存の権力構造に寄りかかり続けてマイノリティを迫害する。したがってマイノリティの苦しみは無条件に尊重されるべきだ」というロジックを生み出すことに成功した。そして、このロジックを最大限に活用したフェミニストたちは、自分の気に入らないすべての主張を正義の名のもとに断罪し、キャンセル・カルチャーという形で言論を封殺できるという「特権」を獲得するようになった。(この問題について詳細に知りたい方は、この記事

あるいはこの記事

を読んでいただきたい)。

だが、もはやフェミニストの化けの皮は、リベラリズムを尊重する人々の声によっていよいよもって剥がされ始めている。「それってあなたの感想ですよね?」という某インフルエンサーの言葉をつきつめ、すべての意見が「アンタの主観だろ」と軽視されるような言論空間は、社会を荒廃させるリスクを持つということに多くの人々が気づき始めているのだ。日々コンテンツを消費している我々オタクたちも、「すべては自分の主観」というテーゼを武器にして言論を封殺しようとする危険な試みに、毅然と対峙していかねばならない。

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