時代が変わっていく

夫の親族に不幸があった。
本家である夫の実家は、義父が葬儀等々の段取りでいろいろ手伝いをしようと、家に出向いたらしいが、すでに「家族のみ」で葬儀を執り行うと決めていたようで、義父の出る幕はなかったらしい。

コロナ禍でもあるし、喪主は息子。息子世代は、本家だの何だの、そんなに気にしていないだろう。「本家」である立場にあるから、気にせざるをえないけれど、分家や隠居の方、さらにその子どもたちとなれば、「本家を呼ばなければ」などとどれだけ意識しているだろうか。

近しい親族だったので、義父母はどうしているか(精神的にも)、バタバタしていて落ち込んでいるどころでもない?など、どうしているかと、気になって義母に電話してみたものの、「本家も呼ばない葬式」に「おかしな葬式」をすると言う義母は、落ち込んだりの様子なんでほぼなかった。兄弟や親でない限り、親族の不幸にいちいち落ち込んだりするような年齢でも、もうないのかな。

ともあれ、元気そうでよかった。
本家なのにすっかりやることがなくなり、手持ち無沙汰になってしまった義父母。「本家の役割」も、もはや薄れつつあるという現実が見えてきた。特に、「子どもたちの時代」になれば口を挟む場面もなくなってくる。

状況が変わりつつある、ということに気づかず「おかしな葬式をする」という義母や、頼られていないが手助けをしようとする義父。彼らが生涯をかけて守り、自らの尊厳にもなっているだろう「本家の役割」が、揺らぎつつある現実を彼らに突きつけるのは酷だろう。

少し前は、そういう考えに辟易して反発心しかなかったけど、何ていうか、自分たちが信じて疑わなかったことに対して、近しいものでさえ変わってきつつあるという現実、また、その現実に気づかず、信じ続けているということ。何だかそのことの方が、不条理にいろいろ言われることよりも、切なくなってきたのだった。

時代は変わるし、命が生まれれば灯火はいつかは消える。それは、悲しいことではなく、命が自然や宇宙の摂理の一部分である、ということなだけにすぎない。もちろん、直面すれば悲しいのだけど。
親の先のことを考えたりすると、物悲しくなったり、これからどれだけのことができるかと思わずにはいられないのだけど。
誰のため、というのも大事だけれど、それも含めて自らの生を全うする。そのことに一生懸命である、ということが結局のところ何より大事なように思えてきた。

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