見た目というツール

こんばんは。
個人的に俳優の菅田将暉さんがとても好きで色々な作品を見させていただいています。
なぜ自分がそこまで菅田将暉さんを魅入っているのか考えてみた時に思い浮かんだ言葉がタイトルになっています。

菅田将暉という人間その物が彼の才能を表現をするツールとなっており、内面と外面の持つ力の差が少ないため表現力が真っ直ぐそのまま伝わってくるからではないかと私自身感じています。あの方の場合は、ご本人の中身の優れた才能を表現するツールがその御本人のボディであることが最大限の才能を表現するのに相応しいのではないかと個人的に感じています。だからひと握りしかなれない俳優という名の芸能人は内面と外見の格差があまりひらいていない、個人の才能がストレートに外面のツールを通して伝わってくるかたなのではないかと最近は考えます。(あくまで勝手に個人的意見です)


そんな外見をツールと見立てての話です。
では内面とは何なのか
才能と一言でいっても芸術的才能、頭脳明晰な才能、人とのコミュニケーションに優れた才能など様々です。才能を各個人の吐出した部分と見れば優しいだとか、涙脆いとか、世話焼きだとかそんなことも含まれてくるのではないでしょうか。

人を好きになる時そういった大きく括った才能に興味を持ち、又1つのアドバンテージとしてそういった才能を自分の中でチェックシートの中に1項目ずつチェックを入れ、パートナーとしての判断基準にしていることもあるのではなかろうか。


外見は気にしない、内面が良ければ好きになる。
確かに外見を内面を表現するツールと考えればその言葉通りだなと私自身思います。
しかし最近ある一定の人に強く思う、「あぁ…この人の頭の中や考え方が好きだ」と。でもということは、今まで惹かれてきた方たちの才能である“優しい”“面白い”“気が利くな”の数々は頭の中の考えでは無いのか?って

その人の考えかたや思考等の頭の中が好きなのと、優しさや思いやり等の体というツールで表現している頭の中は別物なのかと。


才能である優しさや面白さなどの抽象的な内容でも、それを行動に移すまでの考えが人それぞれあり「こうしたほうがいいだろう」「ああしたほうがいいだろう」という一連の考えが間に生じ行動に移しているわけだから、結果としてそれらの抽象的な行動は考えや思考とイコールになると思う。けどその行動から汲み取り受け取り感情が抽象的であり、それ等の感情が行動に移れば移るほどなぜか外面的な良さとして捉えてしまっている。(あくまで個人比)

ではなぜ「好きなところは頭の中」が生まれるのか。
目は口ほどに物を言うと、言葉があるのと同じように私が思う外面的ツールの中で重要視している部分は目よりも何よりも口だと思っているからだと思う。
要するに頭で考えている内容とツールとしての口に格差が生じてない場合に、私はその人の内面が好きだと感じているのだ。

それに当てはめると、内面で優しさの感情が優れている人がその優しさを腕〜手というツールを使って表現する。危ない時に手を差し出す、辛い時に抱擁する等…しかしその行動に内面と外面に格差を感じて、どうしてもその人自身の根の部分からは遠い才能な気がしてしまい思考の好きに至らない。


なぜその様な優しいと言われる行動をとるのか、優しさとはその人の中でどう捉えているのか、どう言った背景からその行動が優しさと結び付けられているのか。優しさの一言にしても色々な背景が浮かび上がると思う。しかしその背景も手を繋ぐの一つの外的行動で済まされてしまうために、内面と外面の熱量に差を感じてしまうのだと思う。

そしてその行動だけでは具体的な人間性である価値観や趣味嗜好、物への考え方や興味的な部分のその人を作っている土台となる考えがみえない才能だったのではないかと、今となっては思う。

結局は外面は内面を表現するツールに過ぎないが、その外面というツールを上手く使いこなせず内面を表現するものの一つとして認識出来ていないと内面と外面に格差が生じてしまう、その格差があるとどうしても抽象的な内容の好きになってしまうのではないかと。

だから内面を最大限に表すために必要な外面でありその外面というフィルターを通じてその人の内面に触れていると、私は思う。だから外面は関係ない大切なのは内面だという言葉はそもそも内面の才能を外面というツールを通して見い出せていない際に出てくる言葉ではなかろうかと思いました。



頭の中ごちゃごちゃで整理しながら書いてます。いつも結局だからなんだという結果がわからぬまま無理やり着地させることばかりです。
相手の何が好きで、その人本人の本質が好きだと思えるのでしょうか

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