ついに、私たちの街にやって来た。薄い紗のような黒い生きものは、この国を徐々に北上していた。それは毎日決まった時刻になると施錠し忘れた扉や窓から入り込み、建物の中をゆったりした動きでぐるりと泳ぎ回った。
 どのみちやって来るものだったし、いずれ去るものだったので、私たちは生活を続けるほかなく、こんな事態になってからも例えば教室には机に向かう子どもたちの姿があり、例えば家々には一家団欒する光景があった。
 ただそのときが来れば、人々はつとめてひっそりと静まり返った。
 それは一枚の布のように尾を引いて漂い、目を持たず、その前で何をしようと気がつくことはない。しかし音、あるいはその振動には敏感だったので、建物から出ていくまでは息を潜めていなくてはならなかった。それはこの生きものが現れてしばらくすると盛んに報道されるようになったので、どんなに小さな子どもでさえ知っていることだった。

 金曜日の午後、院内にはたくさんのひとがいた。どの窓や扉にも取り付けられている鈴がちりん、と鳴って、私たちは表情も固くできるだけ息さえしないようにしていた。しばらくの間、こうして静かにしていれば無事に過ぎるだけのことだった。
 しかし知っているということと実際に経験するということの間には深い隔たりがあって、目の前をゆらゆらと横切るその初めて見る姿は、どんなに恐怖を煽る噂よりも不気味だった。そして、悲鳴を上げたひとがいた。
 ひとりが声を出せば、あとはドミノ倒しのように混乱が起こった。
 つられて叫ぶばかりではなかった。自分の隣にいたひとが目の前で頭からばりばりと食べられるのを目撃して黙っているのは、もちろんとても難しいことだ。
 耳をふさぐこともできないまま、おそらく実際より長く感じられる時間が経ち、来訪者はまた同じように窓の外へ出て行った。建物の中の人数はどのくらい減ったのだろう、と少しだけ考えたが、私もそのまま外へ出た。

 あとはそうやって、同じようにやり過ごした。何度もやり過ごしながら、私もだんだん北に向かっていた。特に何も考えていなかったが、一度それの訪れた場所には二度と立ち入らないようにしているうち、気が付けばそうなっていた。
 それ以前と少しも変わらないはずの景色が、なぜか落ち着かずやりきれない、いたたまれない気持ちにさせるのだった。
 それに私には帰っても待つひとがいなかったため、もしも家にいるときそれがやって来れば、たったひとりで息を潜めることになる。それは耐えられなかった。
 だから帰る家がないのと同じことで、なんとなく自棄を起こしていたのかもしれない。それでなければあの恐ろしいものと一緒に北上するなんて、そんなことはしなかっただろう。

 誰かと一緒にいることは助けになった。誰かの顔を見て、無言のまま静かに励ましあうことは、心強かった。遠くで悲鳴がぷつりと途絶えるのを聞きながら、そうやって何度も耐えた。
 その日も私は居合わせた知らない人々と手を繋ぎ、お互いの顔を確かめながらじっとしていた。
 ようやく息を吐けるようになり、周りの人々がほっとした顔で集まって話をしている中、私と同じように集団から距離を取っているひとりの少女に気が付いた。
 声を掛けると、やはり彼女もこの町の人間ではなかった。
 母を追っている、と彼女は言った。
 それから周囲をそっと見回し、低いか細い声で、あれは私の母なの、と付け加えた。

 私たちは一緒に北へ向かうことになった。
 わざわざ襲われることの分かっている方角へ連れ立って動いてくれるひとはほかにはいないだろうから、これはふたりにとって幸運な出会いだったと思う。
 どの町でも私たちは初めて恐怖に立ち会うふりをした。実際何度経験してもゆらゆらとそれが入ってくる瞬間は恐ろしかったし、誰かが不用意に音を立てるやいなや滑るようにしてそちらへまっすぐ向かう姿も、あっという間に静寂に取って代わられる人々の泣き叫ぶ声にも慣れることはなかった。
 ある町では、南から来たという数人が先頭立って指示を出していた。彼らは落ち着き払い、息を潜めてさえいれば怖いことはないと言い、ただ不気味な噂や悲痛な面持ちで読み上げられるニュースで得た知識しか持たない住民たちに、あれはけして進んで我々を傷付けることはないのだと励ましてやっていた。
 その日のうちに、それはやって来た。
 二階建ての公民館の、一階のひと部屋に私たちはいた。ちょうど目の前には彼らの中のひとりが、この町の住民の肩を抱いてやっていた。
 窓の隙間から入り込んだものが、静まり返っている室内を通り抜け、階段の方へ向かうのを見送り、私と少女は顔を見合ってゆっくり息を吐いた。
 不意に二階から悲鳴が聞こえ、それはそのまま複数の叫び声に変わった。
 恐ろしい騒乱で、はじめ、私は気が付かなかった。頭上から届く声が徐々に小さくなり、やがて途絶える頃になって、やっと聞き取れるようになった。
 怯える住民を励ますように、そのひとは小さな声で話し掛け続けていた。
 あ、と思った時にはもう目の前に真っ黒な揺らめくものがいた。
 その一部がぱっくりと開き、鮮やかに赤い口の中と、規則的に並んだ鋭い歯が見えて、私は隣の少女の手を握る力を強めると、そのままうつむいてぎゅっと目を閉じた。
 嫌な音がして、ああ、というため息のような悲鳴が一瞬だけ響いた。すぐに静けさが訪れ、顔を上げるとそこにはもう誰もいなくなっていた。

 追い付いてどうするのか、という話をした。彼女は困った顔をして、どこまで追い掛けるつもりなの、と反対に聞き返してきた。
 分からなかった。
 北へ北へ向かって、この国を出て行ってしまったらどうするのか、どうしたらいいのか分からなかった。
 母を止めなくては、とぽつりと彼女は言った。

 不思議なことに、薄衣のようだったそれは、北上すればするほど重量を持ち始めていた。
 気が付いたのは彼女だった。その日はうす曇りで、二重ガラスの窓からぼんやりとした明るさが廊下に差し込んでいた。
 私たちはひとのまばらな古い校舎の二階にしゃがみ込んでいた。
 子どもたちはそのほとんどがもっと南の方へ、親類を頼って出ていったのだと町のひとが言っていた。なぜかといえば教師がいなくなってしまったからで、彼らが出ていったのは電車もガソリンスタンドも休業が目立つようになったからだった。
 こんなに北に来る前に、誰かが止めると思っていたよ。ニュースではもうこの国からじきに出て行くだろうという話しかしない。
 そう話すひとに、彼女は目を伏せていた。
 スーパーマーケットの駐車場で私たちを降ろしたトラックは、段ボールをほんの小さな山へと積み上げるとすぐ走り去ってしまった。駅の近くにホテルが一軒あったが、当然のようにそこも閉まっていた。
 町は閑散としていて、残った人々も何か所かに集まっているという話だった。
 よそから来たということを隠しようもなく、私たちはさすがに奇異の目で見られたが、数日の滞在であると告げると概ね快く受け入れられた。
 その校舎の廊下に、彼女は薄いぼやぼやとしたものを見つけたのだった。それは彼女の母親がゆらめいて通り過ぎるときに、付き従うように床の上を滑っていった。
 影だった。

 進めば進むほど、景色からはひとの気配がしなくなっていった。
 不思議と荒れた印象は受けなかった。轍には草が伸び、電線はところどころ切れて地面まで垂れ下がっていた。そもそも電気がきていなかった。そのせいか、昼も夜もとても静かだった。ただその静けさの代わりに、今まで何が聞こえていたのかは思い出せなかった。
 私たちのいなくなった町では、と彼女は静かに笑った。信号も踏切も動くようになって、帰って来たひとたちが暮らしているんでしょうね、そしてだんだん、すっかり元通りになるんでしょうね。
 それはあたたかくて、しかし少し寂しい想像だった。そう思ったけれど、私は何も言わなかった。
 車を見掛けること自体少なくなり、私たちは歩いて北へ向かわなくてはならなかった。
 はじめの頃に比べて随分進むのが遅くなったのにも関わらず、行く先には必ずあの生きものがいた。だんだん影が濃くなっていた。今では輪郭がはっきり絵に描けるほどになり、ついにそう表すことのできるようになった体、何かもっと別の色が黒の下から滲み始めた体を、いくらか不自由そうに動かしながらゆっくり空中を泳いだ。
 重たくなったせいなのか、私たちが速度を落としたように、それも速度を落としているようで、引き離されてしまうことはなさそうだった。
 彼女はこのことに喜びも悲しみもせず、前にもましてときどき難しい顔をするようになった。

 生きものはついにぼんやりとひとの形になりつつあった。腕のようなものの先に手のような、指のような、爪のようなものがあり、それを目一杯広げてそれは誰か人間を探し回った。浮き上がりつつある顔立ちは額から鼻らしきふくらみにかけて、なんとなく彼女に似ているような気がした。
 そしてその顔の、見開かれているような両目は今はまだ明確な形になっていないものの、それは時間の問題ではないかと思われた。もしも目が完成したら、どうなるのだろうか。時々耳にすることのできたニュースでは、そんなことが繰り返し議論されていた。
 人々はもう普通の生活を投げ捨て、町を去るかあるいは昼の間、建物のない雑木林や川原や山の中に逃げ込むようになっていた。そのおかげで、私たちはしばらく誰の悲鳴も耳にしていなかった。
 しかしそれは彼女の気持ちを少しも楽にしていないようだった。様々な場所で夜を明かしたが、どこにいても夜中彼女がうなされていることに私は気付いた。

 私たちは疲れ切っていた。
 日に日に夜気も日差しでさえ冷たくなり、ますます足取りは重くなった。風にはほのかに潮の香りが混ざるようになっていた。
 もう海が近かった。
 のどかな名前の付けられた砂浜への距離が表示され、出されたままの店先ののぼりには一枚も欠かさず海という文字が躍っていた。
 それにも関わらず、私たちは海について話さなかった。海が近いということについては、意図的に会話の中で避けられていた。
 小高い丘の上に建つひと気のない喫茶店の窓から北の方、町も海も真っ黒く一緒くたになったその向こうに、遠い島の人々の明かりが水面に映っていた。それでも彼女は何も言わなかった。
 しばらく外を眺めていた。暖色の照明はやがて、まばらに消えていった。
 眉間に皺を厳しく寄せて眠る彼女を月明かりに見ながら、果たして私たちのうち誰かひとりでも海を渡るのだろうかということを考えた。海に行き着いて、それから、彼女たちにはどこに行く先があるのだろうかと思った。
 遠くに見えた景色は、既に通り過ぎてきた景色だった。
 薄暗く私の影の落ちた彼女の顔は、ぼんやりと、彼女の母親によく似ていた。

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