語学の後に何が来るのか?

少し間が開いてしまいました。というより、半分、3月で区切りをつけてもいいかなとも思っていたんですけどね。まあ、いきなりログが絶えるのもあれなので、少し報告しておきます。

4月から、さる英語の会社に就職しまして、楽しくやっております。最初なので覚えなければいけないことも沢山あり、大変は大変なんですけどね。色々な意味で知らない世界ですので、刺激的です。

この歳になって就職となると、実質的には私よりも若い方々が管理職で活躍されていたりもし、私なんかが入ってくると研修なども面倒くさいと思うんですけどね(苦笑)。色々と配慮・工夫して下さり、日々感謝しております。

わたしとしては、とりあえず、週2日、休みが確保できたのがありがたいですね。もともとやっていたフランス系の研究も多少は続けていて、気が向いたときはそれもやろうかな、と。目下、6月までに、昨年発表した口頭発表を書籍版に直すので、ぼちぼちそれに手をつけていかなければならない…。

しかし、考えてみると、もし大学に残っていたら、どうしても業績づくりに追われていたでしょうから、自分のペースで納得いく仕事を残していけるというのは悪くないことかもしれません。特に、いまわたしが関心を寄せているのは「詩」ですからね。別に、競争して追求しなければならない「最新のもの」とか、「新発見」ってないというか…(苦笑)。

最近の大学って、どうしても理系の論理で設計されている部分があって、特に文学研究とかってちょっと折り合いがつかない部分もあるんですよね。数年前に「在野研究」というのが話題になって、わたし自身も影響受けてますが、そういう活動の意義がまた見直されてくるかもしれません。

でも、その一方で、大学で語学をしっかり勉強したのはやっぱりよかったと思うんですね。まず、英語を教えることで一応は生活が回るし、休みの日に「無為に」ドイツ語を勉強するのも楽しい。仕事にも趣味にもなりますから、不思議です。

あと、紋切り型の言い回しにはなりますが、外国語をやることで母語に意識的になる部分もある。結局社会に出て、現場が変わると、自分の言葉を変えていかなければならない局面が多々あるんですね。そういったときも、「ことば」に関する基本原理を押さえておけば、うまく立ち回れることもあるんです。よく、古文不要論とかありますけど、ああいうのも、ビジネスの現場で必要な「敬語」とかとは直結してきますからね。

それと何より、いまの英語教育の課題は「速読」ですからね。必ずしもいつも速読する必要はないんでしょうが、文字を読むことに長けているひと同士だと話が早い、ということは多少あるかもしれません。

しかし、そう考えると、自分って本当テクスト読むのが苦手だな、とも思います(苦笑)。わたしが以前入りかけたフランス文学の業界には蓮實重彦という有名な研究者・批評家がいるんですが、そのひとが数年前に出した主著のひとつに『『ボヴァリー夫人』論』というのがあるんですね。フローベールという小説家の有名な作品を分析するものですが、そこで、「テクスト的な現実」という概念を提示するわけです。で、『ボヴァリー夫人』という世界文学史レベルで有名な小説でさえ、誰もきちんとテクストを読めていない、と先行する批評家や哲学者の読解を批判していくわけですね。

自分などにとっても、これが、とてもスリリングだったんですよね。で、『『ボヴァリー夫人』論』から得られる教訓のひとつは、やはり、「人類はテクストを読むのが苦手である」ということにつきると思うんです。

こういうことって、社会のどの現場においても役に立つと思うんですよね。蓮實先生というのは、東大の総長までやられた方で、映画批評の分野でも世界的に活躍されている方なんですが、この『『ボヴァリー夫人』論』も、大学の仏文研究というだけではない、もう少し広い視野に支えられていたのかもしれません。まあ、850ページの主著、当分読み返すことはないでしょうが(苦笑)。

という意味では、また全然話は変わるんですが、「ことば」っていうのは色々なところにあるんですね。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』なんか読み返したいと思っているということもあって、実はちょっと、数学のおさらいをしていたんです。といっても、中学レベルのものですが。

でも、そうすると結局、数学の問題集なんかでもかなりことばを読まなければいけない。「切片」とか「相似」とか「平方根」とか、日常語では使わない用語も沢山でてきますし、「文章題」なんかだと、小話みたいなものを読んで、それを「連立方程式」など数式に変換したりしなければならない。これって、やっぱり、かなり国語力がないとできない作業だと思うわけです。ただ、一定の理解力があって、言われた通りにできれば、中学レベルの数学ならば誰でもできる。

逆に言えば、数学の、たとえば「論理」の発想って、あらゆる習得の場面でも必須で、「〇〇の問題が出来ないのは△△という課題があるからだ」とか、「△△という課題を解決するには◇◇という策がある」とか、シンプルな「推論」がうまく機能することが肝要なわけです。となると、語学教育も、ある程度は数学的に処理できるんじゃないかと思い、やはりAIの動向が気になるというか…。

まあ、ちょっと落としどころがわからなくなりましたが、いま広い意味で「リスキリング」の時代で、そういう時代に教師業に迷い込んでしまったというのは、実は結構面白い展開だと思っているんですよね。英語というのは、そのための、それ自体が一個の「研修」なのではないか、そんな風に言ってみたくもなります。

Have a nice new semester !
栗脇

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