ヘンリー・ステーテン『ウィトゲンシュタインとデリダ』より

「ところで、自由なイデア性としての意味という見方の妥当性は、一定の限界内では否定すべくもないし、デリダもそれを否定したことは一度としてない。彼は、その最も初期の著作から、或るテクストが著者以外の人の意識によって「蘇生」させられる可能性の「根拠」として、「意味の同一性」の必要性を常に認めてきた。しかし、デリダにとって、記号の実質に対するそのイデア的同一性の支配は制限されたものであり、それ自身、この同一性が本質的に多様なトークンのうちで展開されねばならないという必然性によって構成されたものである。記号についての古典的分析が、質量と形式との間に概念的断層を想定し、質量をイデア的同一性に従属した個別者の展開と同一視しつつ、その概念的断層に沿って記号をはっきりと二つの部分に分断してきたのに対して、デリダはイデア性とその具体化との関係をいわば水平的に取り扱う。記号の様々な現象的生起は経験的事実であるが、記号のタイプが常にそうした多様な偶然的反復のうちに現れねばならないことは本質的である。記号のタイプがその概念的本質において構成されるのは「反復可能性」(iterability)によってであり、区別された空間-時間的事物として互いに何らかの程度において異なっている一連のトークンを通じて、原理的にそれが繰り返されうるということによってである。この反復可能性は、いかなる付帯性でもない。なぜなら、もし或るタイプが反復可能でないとすれば、それは記号ではないであろうし、意味する機能を果たすこともできないであろうから。他方、「調子や声などの経験的変化を貫いて」記号を再認させる「或る種の自己同一性」がなかったら、変化する記号の現われはやはり記号として機能することができないであろう。要するに、反復の構造は「同一性と差異とを同時に含んでいる」のであり、デリダはそれゆえ、差異を同一性と同等の本質的地位をもつものとして遇しようとするのである。反復可能性は〈多でありうること〉に他ならないから、記号の記号としての同一性ないしは本質を構成しながら、「記号の同一性をアプリオリに分割する」とデリダは言う。ところがまた、この反復可能性は、或る程度まで自己自身にとどまるという統一性がなければ考えられないのである。かくしてデリダは、イデア的同一性の純粋性ないしは自己充足性を、「最小限のイデア化」によって可能になる自同性の「最小の残遺」と彼が呼ぶものにまで縮減する。この「残遺」は、そのつどの反復における物質的部分の変形によって、そのイデア性が次第に蚕食されていくのを本質的に避けることのできない記号の最小単位を表している。古典的説明においては、タイプのイデア性は個別者の可変性による汚染から完全に免れていたのに対して、デリダの説明においては、その両者は本質的に結びつけられており、ロゴスの純粋性から差異が追放され貶められるのではなく、同一性と差異とが同等の権利をもって共存しているのである。」

ヘンリー・ステーテン『ウィトゲンシュタインとデリダ』高橋哲哉訳、産業図書、1987年、45~46ページ。

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