日本行動療法

いつかこのタイトルを使おうと思っていたんですが、ついに使ってしまいました。柄谷行人さんの『日本精神分析』を表層的には踏まえているんですけどね。さて、どんな文章になるか?

ふと思い出したんですが、中高生の頃、最初に興味をもった学問って心理学だったと思うんですね。ただ、もちろん、学問的でもなんでもなくて。漫画とかで出てくる「催眠術」とかが面白くて、『図解 心理学』みたいな本を最寄り駅の本屋で買ったことを唐突に思い出しました。

で、おそらくそのときに、フロイトの「精神分析」というのを最初に知ったんだと思うんですね。で、大学に入った時も、心理学系の学科ってたくさんあって、一般教養の講義にも各学科の教授が割と多く出講されていたので、いくつか出たんですね。ただ、思ったより面白くなかった(苦笑)。で、「あれ?」と思ったんですけどね。想像以上に理系的だったというか、実験とその結果の分析、みたいな感じで、「こころの闇」みたいなものを解き明かしてくれる感じがしなかったわけですーーもちろん、今では浅はかだったと思いますが。

で、結局、芸術論みたいなことをやる学科に進学したんですね。で、そこではむしろ、フロイトや、その後継のラカンの精神分析を応用して作品を分析する、みたいなことがなされていたわけです。で、先輩たちと、精神分析勉強会やりました。ちょうど、中山元さんの新訳なんかが出始めたころで、「めっちゃ面白い!」とか思ってフロイト読みふけりましたけどね。で、そのとき、ちょうどフランス語の勉強がのってきた頃で、いわゆる「フランス現代思想」の論客たちが、フロイトの精神分析に興味をもって、刺激的な応答を沢山していることを知ったわけです。

で、いきなり読んだのが、ドゥルーズ/ガタリの『アンチ・オイディプス』。これ、哲学者のドゥルーズと、精神分析家のガタリというのが共著で書いた、「フランス現代思想」の代表作のひとつなんですね。で、思ったより読みやすいと思ったんです。基本的には、フロイトのいう「パパーママー僕」のエディプス・コンプレックスの三角形をあの手この手で批判するようなものかと思いますが、勢いのある文章なので、わからないなりに読めてしまうんですね。よくわからない映画や演劇を、それでも楽しんでしまう感じといいますか…。

まあ、そんな感じで、緩い仕方で精神分析の本も読んでいたわけです。もちろん、ラカンの専門家などもいたので、ちゃんとやればもっと大変だったと思いますけどね。遠目に読む分には面白かったわけです。

ただ、強いて自分の専門とひきつけると、大学院の頃研究していたサルトル――上述のドゥルーズより一世代前の哲学者・作家――も、少し精神分析と関わりがあるんですね。厳密には、『存在と無』という主著でフロイトの精神分析を批判するんですが、その中で今度、「実存的精神分析」なんていう独自の精神分析を構想することになります。で、その後、自らその手法を用いて浩瀚なフローベール論を書くことになります。これが、わたしが博士課程で挑戦し、敗北した(苦笑)『家の馬鹿息子』という晩年の主著になります。

あとは、わたしが一時期興味をもっていたジュリア・クリステヴァという文学者も精神分析に近く、というか実際に精神分析家としての資格ももっていたはずなんですね。で、フロイトやラカンの理論をもとに、広く文学論・文化論を展開していくことになります。

クリステヴァって結構面白くて、もともとブルガリアの人なんですが、留学生としてパリにやって来るんですね。で、それこそ、ちょうどドゥルーズらの「ポスト構造主義」が全盛だった時期で、その中で彼女もスターになっていくような部分がある。ブルガリアって東欧の国なので、クリステヴァはロシア語もできるんですね。で、ロシアの言語学や言語理論をフランスに紹介するわけです。それがまた、フランスの現代思想を盛り上げることになる。

精神分析っていうのも、一般には「エディプス・コンプレックス」だけが有名かもしれませんが、実は結構深く「ことば」に迫る心理学・精神医学なんですね。治療の過程で、患者の「言い間違え」とか、細かい言葉遣いに注目するわけです。まあ、そういうこともあって、一時期のフランスで一世を風靡することになったのでした。実際、分析を受けに行くのが流行り、みたな時期もあったようなんです。

ただですね、さすがに昨今は「精神分析」も下火で、ドゥルーズやクリステヴァ以後の世代に属するカトリーヌ・マラブーなんていう哲学者はむしろ脳科学の方に関心を移すわけです。広い意味で、いま、わたしたちは「精神分析以後」の時代にいるわけです。

なので、わたしがフランスにいた頃も、「精神分析」というのは思想史の一場面みたいな位置づけでしたね。哲学科の授業で、サミュエル・レゼ(Samuel Lézé)という先生がいて、ご自身臨床家でもあったかと思いますが、20世紀を通し、いかにフランスの哲学者たちが精神分析に抵抗を示してきたか、みたいな授業があったりもしました。

で、ついでに書いてしまうと、そのまさに留学先で、わたし自身バーンアウトで一回倒れてしまったんですね。数か月ですけど、うつ病みたいな症状になり、不安障害などに苛まれた時期があったわけです。それこそ、そこで精神分析受けていたら面白かったんですけどね(笑)。代わりに、そこで受けることになったのが「認知行動療法」というやつだったんです。

日本でも主流になりつつある治療法で、本なども沢山あるので名前はご存じの方が多いかもしれません。英語ですと、cognitive behavioral therapyというものです。すごく単純化すると、「認知」の仕方を変えて、「行動」の仕方を変えていこう、という治療法なんですね。

簡単に言うと、うつ病とかになってしまう人って、その核に、「認知の歪み」がある、という発想を持つわけです。思い切って素人の言葉に翻訳してしまえば、「思い込みがあって思いつめてしまう」という感じでしょうか。それをプロのカウンセラーが、カウンセリングの過程で細かく分析し、対話の中で解きほぐしていくのが認知行動療法なんですね。

その一時期は、まあ大変でしたけど、いま思うと結構貴重な経験でもあったな、と。で、認知行動療法の発想でもうひとつ面白いのが、「現実は変わらないけれど、現実に対する認知の仕方は変えられる」というものなんです。これは、ある意味、万能ですよね。自然災害なども含めれば、どうしても不条理な現実は避けがたい部分がある。人間がそれ自体を変えるのは無理です。でも、何かがあった時、それに対する考え方、関わり方を変えていくことは、誰でも多少はできるというわけです。

で、そのときの鍵も、やはり、「ことば」だと思うんですね。カウンセラーとことばを交わすことで、自分のことばを変えることで、現実に対する認知の仕方を変えていく、そういう回路があるように思うわけです(千野帽子さんの物語論で、このあたりヒントが書かれていたように記憶していますが…)。

そんなこんなで、いま、「認知言語学」や「行動科学」に関心が向かっていたりもするんですが、もし仮に然るべき教育を受けていれば、心理学系の仕事とかも面白かったかもな、とは思いますね。新入生の皆さん、ぜひ、一般教養の心理学しっかり受けてください(笑)。

ちなみに、「行動」の方についても簡単に書いておくと、英語にするとbehaviorですね。これも語の造りという観点では、be-haviorでhave「持つ」という要素が入っています。で、例えば、habit「習慣」なんていうのも、やはりhaveと結びついてくる。「習慣」の問題って、実は、ヨーロッパ中世の哲学や(上述の)ドゥルーズの思想なんかにも結び付いてきて、こうした観点については山内志朗さんの『天使の記号論』なんかが面白いんですけど、実は思想史的にも射程が広い問題系だったりするわけです。

ということで、受験生の皆さん、『やっておきたい英語長文300』の第1課、冒頭の一段落はこのくらいの射程をもってインプットして下さればと思います、なんてね(笑)。

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栗脇

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