加藤周一『日本文学史序説』より③

「美的享楽主義、あるいは生活の芸術化をめざす閉鎖的小集団は、一八世紀にはじめて成立したのではない。平安朝、殊に一〇世紀~一二世紀の宮廷には、「女房」社会があり、一六世紀から一七世紀にかけての武士社会には「茶人」の仲間があった。彼らは権力機構からはみ出していたが、権力の中心から充分に近いところに位置していた、彼ら自身の生活を保証するためにも、貴族または武士の権力機構内部の人間を観察するためにも。大衆との関係についていえば、宮廷の女たちは外の世界を知らなかった。清少納言から建礼門院右大夫まで、彼らは地方から切離された都のなかで、さらに孤立した小社会のなかに暮らしていた。このような貴族社会の孤立性は、「封建性」の時代に破れた。しかし一六世紀に武士上層部とむすびついて発達した茶の美学は、大衆感情と交るところがほとんど全くなかった。金殿玉楼も裏の苫屋に若かずという考え方は、金殿玉楼に住む支配層のもので、浦の苫屋に住みなれた漁夫のものではなかったはずだろう。
「文人」の特徴は、外国の詩文書画の教養という面で大衆から遠く離れていたと同時に、俳諧を通じて、また遊里の感覚的接触を通じて、大衆の世界と無縁でなかったということである。」

加藤周一『日本文学史序説 下』ちくま学芸文庫、1999年、26ページ。

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