必要に会いに行く/無為のドイツ語

ということで、今年は職場の移動があるので、数日休みが出来ました。この一年半くらい、ほとんど連休というのがなかったんですよね。手持ち無沙汰になる感じもするんですが、こういうときだからこそ考えることもある。

夏から秋にかけて両親が二人入院することがあって、もうどうしようもないので放っておいた部分もあったんですが(苦笑)、久しぶりに会いに行ったりもしています。会いに行くだけで喜んでくれるのは親くらいですからね、多少こういう時間が持てたのはよかったかな、と思います。

英語で、meet … needsという表現があるんですが、これ不思議ですよね。meetは「会う」、need(s)は「必要、ニーズ」です。あえて文字通り訳せば「必要に会う」です。高校英語レベルで出てきて、知らないと大体間違えるんですが、辞書など眺めていて察するに、meetというのは何かと何かが〈ぶつかる〉というイメージを持つようなんですね。人と人がぶつかれば「会う」ですね。バットがボールに「当たる」というのもmeetです。そういうのの延長で、meet a goal「目標に達する」なんていう表現もあるんですが、これも、目標を目指して動いていたものが、最終目標にぶつかる、というイメージのようです。

なので、meet … needsも、おそらく、(わかりやすく言えば)助けを「必要」としているところに、何かがやってくる、ぶつかる、というイメージなのかと思います。

市場でも「ニーズ」というのは大切で、特に講師業やっていると悩みますね。「ニーズに応える」というのは大前提として、そもそも何がニーズなのか判別しづらい部分もある。塾業界では、点数や偏差値、合格実績などの「数字」やそれに基づく大学の「名前」が代表的な指標になるのでしょうが、それが全てではないような気もする。でも、平等に対価が発生している以上、目に見えないニーズにどう対処するか、というのはなかなか難しい問題なんですね。特に未成年相手だと、子と親のニーズが微妙に違ったりもしますからね。

それと同時に、これは大学生以上など、受験の外部の話かと思いますが、ニーズに応えるだけが教育とも思えないんですね。そもそも、学ぶ側からすれば、自分自身のニーズが何かを知らないこともある。教師と生徒の関係は「非対称」というか、教育には、どこか、「過剰」な部分もあるような気がいたします。

まあ、私自身、それで困ったこともあるし、時間が経つと、それで助けられたような部分もある気がするし、何とも言えませんが。

そんなこと考えながら、総武線でコトコトと、家族に会いに行っているのでした。で、今日は「二本立て」なんですが、久しぶりにドイツ語をやっています。

散々『文法問題集』をやらせた生徒たちへの罪滅ぼしということもありませんが(笑)、自分の指導を自分で試したくなったんですね。今回使用しているのはこれ。

定評のある問題集なんですが、「パターンプラクティス」に近いでしょうか、割と限られた語彙で、簡単な文章を、少しずつ人称などを変えながら沢山作文させるものです。ドイツ語には「格変化」というのがあって、簡単に言うと置かれる位置や文法的役割に応じて「冠詞」の形が変化するんですね。例えば、その前に置かれる前置詞によって、その後にくる冠詞の形が変わるんですが、いま各前置詞ごとに10問ずつほど作文しなければならない章に差し掛かっており、ちょっと心が折れかかっています…(苦笑)。

(簡単に言うと、英語ならば、of the -, in the -, at the -, after the -, during the -など、定冠詞を使いたければどの前置詞の後もすべてtheでいいんですが、ドイツ語ではそれが前置詞に応じて変わってくる、ということです。)

まあ、大変ですけど、普段中高生がどれだけ時間と労力をかけて最初の外国語を習得していくかを目の前で見ていると、姉妹語であるドイツ語くらい、何とかなる気もしてくるんですよね。(ちなみに、上記のneedという英語は、ドイツ語のNot「苦境、窮地、必要」とつながるようです。)

フランス語をやっていた頃は、第3外国語のドイツ語が伸び悩んでいるような気がしていて、正直限界を感じていたりもしたんですが、もう一回英語を挟むと、少しまた見え方が変わってきたような気もいたします。宍戸里佳さんの『英語と一緒に学ぶ〜』シリーズではありませんが、視覚的にも、音声的にも、英語とドイツ語は似ている部分が多いんですよね。(単語レベルでは、独仏も多少共通点があるのですが…。)

ただ何にせよ、大してものにならなかったドイツ語も、実は細々と15年くらいはやっているんですよね。一般教養で始めて、フランス語に注力するためにストップして、修士課程でサルトルの哲学を始めた頃にまた再開して、博士課程で忙しくなってまた止まって、留学中多少時間ができてまた始めて、帰ってきてからもまた趣味で始めたり止まったりして…(苦笑)。

(私の場合は、サルトルとかデリダとか、興味を持っていたのがフランスにおけるドイツ哲学の研究者だったんですね。今追っているフィリップ・ベックさんなんかも、アルザス地方のストラスブール出身で、独仏のバイリンガルです。私の先生だった小林康夫先生も、フランス語教師ですが、一冊『起源と根源 カフカ・ベンヤミン・ハイデガー』というドイツ文学・思想の本を書いていたりもします。)

しかし今になってみると、特に仕事にならない「無為のドイツ語」というのも悪くないかな、という気がしてきました。ニーズはないんですが、それは今やフランス語だって状況は変わらないし、自動翻訳が機能し始めたので、今後は徐々に英語のニーズも落ちていくでしょうし。

でも、じゃあ語学をやる「必要」はないかというと、そうではないとは断言できそうです。その理由は、色々あると思いますが、まあ、皆さん各人で確かめてみて下さい(笑)。

Einen guten Tag !
栗脇

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