清掃の哲学

少し時間が空いてしまいました。年度末で色々とバタバタしていたのに加え、一時期、ピアノで「作曲の練習」に熱中していたりもしたので(笑)、こちらのキーボードから離れておりましたことをお断りいたします。

さて、久しぶりの投稿ですが、今日のテーマは「清掃」です。というのも、仕事のつなぎに、朝、近所のマンションのごみ捨てと簡単な掃除をするアルバイトをしていたのです。学生時代はずっと病院の宿直をやっていたので、いわゆる「汚い」仕事にそこまで抵抗があるわけではなかったのですが、色々と考えることもありました。今日はそれを簡単に書き留めてみたいと思います。

まず、バイト2日目くらいでしょうか。一番、新しいバイトが嫌になるタイミングですが、ふとこうしたことが頭に浮かびました。

「なんで俺がこんなことしなければいけないんだよ。」

もちろん、頭の中で何を考えようがわたしの自由です。しかし、この自発的な思考の動きには何かしら「考えるヒント」があるように思ったのです。つまり、「なんで「なんで俺がこんなことしなければいけないんだよ」と俺は思うのか?」という問いが次の瞬間には浮かんでいるわけです。

言うまでもなく、掃除はこの世界が回るために必要不可欠な営みです。自宅の掃除は誰もがしますし、高校生くらいまでは、誰もが順番で掃除当番をしていたわけです。それでは、どうして、私は上記のように考えたのか? いつから、わたし自身は「掃除を免除されてしかるべき人間」などになったというのか?

大学に入ってからでしょうか? 偶然にも東大に入ったからでしょうか? ふと思い出しましたが、学生時代、ある大型書店でバイトをしていた時期もあったのですが、そのときも店長に気に入られ、ほかの学生バイトがモップ掛けをしているあいだ、社員らと一緒にレジ締めをやらされたりもしていました。東大生だから、泥臭い仕事ではなく、お金や頭を使う仕事をさせてもらっていたのでしょうか? 今回のバイト先でも、履歴書をみせると「東大卒なんですか? こんな仕事させて申し訳ないです」みたいなことを社員さんから言われましたし(苦笑)。そうした経験が、上記のような「認知のゆがみ」にいたったのかもしれません――あえて、心理学、「認知行動療法」の表現を使いますが。

何にせよ、久しぶりに(自宅ではない場所の)掃除をしたわけです。一言で言えば、それほど大変な仕事ではありませんでした。早起きするのは最初少しつらかったですが――とはいえせいぜい6時半くらいですし――、ひとりで黙々できる仕事で対人関係などのストレスはありません。時間も余裕をもって設定されていますので、大変とか、忙しいということはないのです。

また、例えば駅のトイレ掃除などは別の話かもしれませんが、その辺のマンションの汚れなどたかが知れたものです。ごみの分別が悪かったりはしますが、お金をもらって、手袋をつけてやるのですから、特に潔癖症などでなければ、だれでもできる仕事かと思います。階段を上がり下がりするので、ちょうどいい運動にもなりますし(実際、コロナ太りが解消されました!)。

また、こんなことも考えました。一般に、清掃は「きたない仕事」と言われるように思います。しかし、正確には、「きたないものをきれいにする仕事」ではないか。例えば生ごみでも、半透明のごみ袋に詰めれば素手で扱えるようになるわけです――特に関係はありませんが、美術史家の岡田温司さんに『半透明の美学』という著作がありますね。

つまり、清掃を「価値の反転」の作用ととらえることもできなくはないと思うのです。ここで思い出すのは、意外かもしれませんが、アリストテレスの『詩学』です。ちょっと面倒くさいので(笑)、参照はしませんが、ある個所で、「ミメーシス=模倣」の作用として、「醜でさえ、芸術の力で美になる」というようなことが語られていたはずです。つまり、芸術(アルス)や技術(テクネー)の力で、自然(ピュシス)上の価値が反転するということになります。今回の文章は「清掃の哲学」という題を掲げましたが、「清掃の詩学」を問題にすることもできるのではないかと思います。

逆に言えば、詩とは清掃なのではないか? ――とか言い始めるのが、我々、現代思想系の人間です(笑)。でも、実際、例えば、散乱されている段ボールや紙ごみも、きちんとまとめ、ビニールの紐でしばると何か芸術作品のようなものにみえてきたりもするわけです。それぞれの古紙は特徴がありますし、紐でまとめただけでも正確に同じ物体は作ることができません。清掃というのは、文字通り、「反復」の営みですが、そこには多分に「差異」が含まれているのです(Cf. ドゥルーズ『差異と反復』)。

つまり、詩を作る=創作をする(ポイエーシス)というのも、存外、そんな程度のものなのではないか。その辺に放置された「もの」を「まとめ」、ひもで「むすぶ」。もちろん、どんな「もの」か、どんな仕方で「まとめ」るか、どんなひもで「むすぶ」か、が勝負になるのでしょうが、創作とは、畢竟、「もの」と「方法」なのではないか、と。

(「もの」については、例えば、哲学者のトリスタン・ガルシアさんがForme et objetという大著を書いていますね。あるいは「方法」については、詩人の西脇順三郎に次のような一節があります:

「詩の世界は創作の世界である。如何なる方法で創作するか。私の詩の世界は私の方法で作られてゐる。」(『西脇順三郎詩集』岩波文庫、1991年、95ページ)

おふたりとも、掃除の話は面白がるんじゃないかな、と。)

あと、もう少しまとめておけば、「汚れ」についてはすでに思想的蓄積がありますよね。人類学者メアリー・ダグラスに『汚穢と禁忌』があり、バタイユやジュリア・クリステヴァさんの「アブジェクシオン」なんかもこれにかかわると思います。「吐き気」(メニングハウス、デリダなど)や「グロテスク」(バフチン、カイザーなど)なんかも多少関係はありそうです。宮崎裕助さんの『判断と崇高』なんかでも近い話が出てきた気がします。

(こうしたテーマについては、以前、共訳したクリステヴァ『ボーヴォワール』の訳者解説で多少まとめたりもしました。手前味噌になりますが、よければ手に取ってください。ついでに書けば、「汚れ」というのは、やはり、「男性」よりは「女性」にかかわるものですよね、人類史的には。この辺りはいまの「フェミニズム批評」で考え直すこともできるかもしれません。)

ということで、例によって雑にまとめますが、ふた月ほど清掃のアルバイトをやらせていただき、わたし個人としてはいい経験をさせてもらったと思います。しかし、その一方で、人手不足で朝5時くらいから駆り出されている社員さんらの様子をみていると、少し心が痛んだ部分もあります。自分にとっては一時期の「いい経験」になったものでも、毎日、毎朝、退職までやり続けなければならないとすればまた別の話になるでしょう。

冒頭で書いた通り、「なんで俺がこんなことしなければいけないんだよ」とわたしが思った仕事を、実際にやっているひとがいる。ポジティヴにとらえられたり、それ自体としてはやりがいを見出すのが難しい仕事をしているひとがいる。こうしたことは、特にわたしのような普段は「机上の空論」にかまけている人間も忘れてはならないと思うのです。

ふと思い出しましたが、小野正嗣さんの小説『九年前の祈り』で掃除の様子に注意が促される個所があったと記憶しています。もしよければお読みください。私見では、小野さんも、価値の反転としての詩学に関心を寄せる作家です。

あと最後に書けば、今回掃除のバイトをしたのは、たまたま家のポストに募集が届いたということもありますが、荒木優太さんの影響も大きいかと思います。同世代の批評家で、朝、清掃の仕事をしながら「在野研究」を提唱されている方です。実際に掃除をしてみて、少し、荒木さんに近づけただろうか?

それでは以上です。来月からはさる職場で新しい仕事が始まりますが、ここでの「エセー」はどうなるか。いま、山上浩嗣さんの『モンテーニュ入門講義』を読んでいたりもして、細々と続けたい気はしていますけどね。わかりません!


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