松浦寿輝『物質と記憶』より

「ベルクソンの名著からタイトルを借りたのは、さして深い考えに基づいてのことではない。文学とは結局は「物質」であり「記憶」であって、それ以外の何ものでもないという思いが、折りに触れ立ち戻ってくるからという程度のことにすぎない。詩とは、小説とは何か。要するに言葉の連なりであろう。では、言葉とは何か。物質化した記憶、あるいは、同じことだが、記憶化した物質のことにほかなるまい。
 言葉は、物質として凝集し溶解し流動し、また記憶として滞留し痕跡化し、かくして「作品」がかたちづくられることになる。本書所載の文章の一つ一つで、言葉というこの「物質と記憶」の多種多様な表情に触れて生じた心の震えを、そのつどわたしは、いま一つ別の種類の「物質と記憶」に変換し、「作品」の側に投げ返そうとした。それを批評と呼ぶか解釈と呼ぶか感想と呼ぶか、そんなことはどうでもよかろう。ここで念を押しておきたいのはただ一つ、書名の借用それ自体は冗談半分のようなものだとしても、この投げ返しの身振りがベルクソニスムとまったく無縁のものではないはずだということだけである。
 もっとも、「記憶」などとは言いながら、校正刷を通読して、自分自身が書いたことの大部分を忘れてしまっていたのには改めて驚いた。わたしは他人の文章で読んだ事柄は比較的よく覚えている方だと思うが、自分の文章は書いた端からあっけらかんと忘れてしまう。ひとたび「物質」として言葉を身体外に放出してしまえば、もう脳内のニューロン痕跡は抹消してしまってかまわないと思いこんでいるのだろうか。」

松浦寿輝『物質と記憶』思潮社、2001年、328〜329ページ。

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